醜女の仇討ち…巴御前の再来…歌舞伎の大演目にも… | アナリスト杢兵衛の独り言

アナリスト杢兵衛の独り言

2022年11月20日…
突如として自身のブログに入れなくなりました。
ここにコツコツ再開します…
侍の矜持を体現する長谷川平蔵を愛する杢兵衛です…
なお前ブログ最終は以下にあります…
https://ameblo.jp/cma8836/entry-12775299616.html

ご来訪ありがとうございます✨

醜女の仇討ち…

昔…本で読みました…

これは要約と思ってください…

でも…

見事な覚悟を持たれた主人公でした…


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…醜女の仇討ち…


 石見浜田五万一千石、藩主松平周防守康豊の頃、

享保九年(1724年)四月三日八つ刻(14時)過ぎ、

京橋木挽町五丁目東側にある浜田藩中屋敷の

広座敷には唯ならぬ気配が漂っていた。

 ほぼ中央に据えられた三方には、

柄まで血塗られた来国光九寸五分の抜き身が

小暗く輝き、その三方を前にして横一線に

並んだ四人の浜田藩士は揃って唇を引き結んでいる。奥家老堀野二郎太夫、表用人藤浪刑部、

大目付小池利右衛門、書役の高尾浄四。 

 やがて徒目付によって四人の前に正対する

位置に座らされて一揖したのは極めて体格の

いい醜女であった。

 隣には長門長府藩足軽頭松田助八、旗本細井家

御用人岡本佐五右衛門、石州津和野藩士落合嘉内と

奥女中お雪とお諏訪。 


  彼らが着座して「吟味中ことばを改める」と

口を開いたのはこの日の調べ役小池利右衛門。

 「中老尾上の召し使っておったお初とはその方の

ことか」

「作用にございます」と一揖した醜女に対し

本名は松田察というのであったな、と小池は

白扇をつかみ直して訊ねた。


「はい、長府藩毛利家のご家中にて足軽頭を務めて

おります松田助八の娘にございます」 

「齢(よわい)は幾つか」

「四ー二十四に相成ります」

「その歳まで、どうして何処にも嫁(かたづ)かな

かったのか」「はい」この心ない問にも奉公名を

お初、本名は松田察という醜女は臆することも無く淡々と答えた。 


「わたくしはご覧の通りの顔かたちで「男おんな」

「女の生まれ損ない」と渾名された者でございます

から、何処からも縁談がこなかったのでございます」


「その方、武芸には秀でておるそうじゃのう」

 「はい、些か。渋川流柔術を中川左膳さまに三年、

新風流薙刀術を半田孫十郎さまに二年半お教え頂き、

ともに免許を頂戴致しました」


「初めて半田とやらの道場を覗きに行った砌、

その方を見咎めて苛なもうとした弟子のひとりを 

一本背負いで投げ捨てたという噂はまことか」 

「さようなこともございました」

「その方宅に無心に押しかけた浪人者を苦もなく

ねじ伏せたり、両国橋から酔漢を大川に投げ込ん

だりしたこともあると聞いたが、これもまことか」

「ふたつながら、尾上さまにお仕えする前のこと

でござります」-

「では、五斗俵をひとつずつ両手に提げて歩けると

いうのも確かなことじゃな」

「はい」 

「ふむ、悉(ことごと)く真っ直ぐに返答いたし、

まことに殊勝な心掛けである」 


「では本日その方がこれなる来国光により、

老女岩藤を殺めるに至った次第をありていに 

申し述べよ」

「はい、それでは申し上げまする」 


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 可愛がられたお初は尾上さまより姉妹の契りを

約された。 


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  昨日の宵の口、お殿様が側室お光の方さまの

部屋へお召です……ご老女岩藤も来ているが、

履物を隠され何と岩藤の履物が置いてある。

知らず急ぐ尾上さまは我が履物のところにあった

履物(岩藤の物)を履いてお殿様の元へ行く。

  無事終了し、部屋へ戻る際、岩藤が「履物がない」

と叫び、尾上さまの履物が我が履物であることを

周知の場で暴く。


許されざる行為が二件、

 まず「尾上、己も素性のしれぬ家柄とはいえ

武家の娘」

もう一点が「履物の底で尾上さまの顔を蹴り

つけたこと」これにより尾上さまは屈辱のため

自害された。

あとから聞いたお初は尾上さまがご自害される前に

尾上さまのご実家まで書状を届けることを依頼され

た。ふと気になったお初は途中、文を改め、

尾上さまがご自害される文と分かり急ぎ戻るも

果てた後だった。

 

 お初は岩藤を尾上さまの部屋へ案内し、

尾上さまの遺体の上にねじ伏せ、

「この老耄め、よっく見よ」

「我が主を殺しながら、なおぬくぬくと世渡り

しようとしてもこの察が断じて許さぬ。

主の仇は今討つほどに、死んで怨みが言いたくば

毎日なりとも化けてきや」

 と尾上さまの遺骸の上に岩藤を打ち重ね、

尾上さまのお守り刀で岩藤の喉目掛け三度突き立て

ましたのでございます。 


  お初こと松田察は、最後に深々と上体を折って

口上を述べた。 

 「すでにお分かりいただけたかと存じますが、

わたくしの主、尾上さまこと岡本お道さまは、

老女岩藤の権勢を鼻にかけた非道な振る舞い故に、

本意なきご自害を遂げたのでござります。

 お道さまの仇をなじょう生かしておけようかと

岩藤を賺(すか)し寄せ、恐れながらお恨み

申し上げたるは確かにわたくし。

 最早本望を遂げましたからには、

いかようなお仕置を仰せつけられましょうとも

文句はございませぬ。」 


 「ただし願わくばわたくしが死を賜りましたならば

我が髪のひと房なりとお道さまのお柩に納めては

下さりませぬか。

 かような醜女を人並みに扱ってくださいたさました

お道さまが、ひとり黄泉路をお辿りになるのはあまり

にお気の毒。

わたくしはあの世にても、お道さまにお仕えしとう

ござります」

 

  松平康豊は奥家老堀野二郎から松田察の陳述を

報じられ、直ちに断を下した。 

「中老尾上の身柄は粗相のなきよう大切に扱え」 

「お初ことお察とやらは、まことに下賎の身にも

似ず女丈夫、君辱しめらるれば臣死す、との気概

と忠烈はまことに嘉(よみ)すべきことなれば、

ゆめゆめ科人(とがにん)扱いなどいたしてはならぬ。

供をつけて実家に送り返してやるがよい」 


 「ご老女岩藤の死体は如何いたしましょう」

と堀野が問うと…… 

「永年当家に奉公いたしおる者とは申せ、

その所業は聞けば聞くほど言語道断。

あえなくお察の手に掛かりしも自業自得のこと

なれば、遺体は早々に実弟落合嘉内とやらへ

下げ渡せ。その際、嘉内からは忘れずに誓紙を

取っておくのだ。」 

 「その文言は……松田察こと、主人の仇捨て置き

がたく岩藤こと落合沢野を害し候ことなれば、

仇討ちなどと狙いつかまつるまじく候」


 烈女お察はその日のうちに浜田松平家及び

お察の父助八の奉公先長府毛利家の中で大評判と

なった。


 長府毛利家でお察召抱えの動きが生じたことに

気付いた松平康豊は、この烈女を手放しては

家名にかかわると考え、堀野二郎太夫を呼び出し

耳打ち。


 堀野二郎太夫は四月七日、助八を召し出し告げた。

 「その方の娘察こと、女ながらこの度の仇討ちは

忠烈至極。我が公にはいたく感服あそばされ、

すぐにでも奥にて召し使われたしとの思し召し

である。よって中老格として召し出し、給金の

ほかに四十俵五人扶持を与えてそのほかに仕度金

百両、時服五領を下されることに相成ったにより、

この段ありがたくお受けするのじゃ」 


  お察が罪に問われなかっただけで僥倖と感じた

助八は我が耳を疑いながら答えた。 

「思し召しのほどは、まことにありがたきことで

ござります。なれど察は、手前のごとき卑しき者の

娘、その上お見かけ通りの人体(にんてい)で

ございまして、とても御前のお勤めなどに

ふさわしい女ではございません」 


 堀野二郎太夫は言う…… 

「何も申すか、何もこれは容貌を見込んでのお召

ではない。お察の見事なる手柄を愛でてのこと

なれば、辞退いたすはかえって穏やかではないぞ」

 

  恐れ入った助八は承諾したので、お察は召使い

という又者の身分から一足飛びに中老に出世し、

浜田松平家の奥向きに重きをなすようになった。


 その女房名は「松岡」で、優しかった主人お道の

姓「岡本」と自分のそれ「松田」とを組み合わせて、

尚もお道を忍び続けたのである。

 

  それから三年後、お察二十七歳の時、

どうしてもお察を妻に迎えたい、という者が現れた。


 康豊に用人として仕えていた神尾(かんのお)主膳、

これを快く許した康豊は、「そのかみ和田別当義盛が

木曾義仲の側室巴御前の武勇を惜しみ、頼朝公に

命乞いして妻に貰い受けた故事もある」

と主膳の心ばえを讃えた。


  七十一歳にて生涯を閉じたお察。 

事件から五十八年の歳月が流れ、すでにお察も

冥界に去った天明二年(1782)、お察の仇討ちは

華やかに脚色されて…


「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」

の外題のもとに人形浄瑠璃となり、翌年には歌舞伎と

なって大当たりを取った。

 

 以後、歌舞伎の世界では新春が曽我狂言、

年末が忠臣蔵、そして御殿女中たちの宿下がりする

三月には決まって「加賀見山旧錦絵」が上演される

ようになってゆく。 

「加賀見山」という言葉は…… 

「女の鑑」と世に謳われたことに発するのであろう……


早々