ディープな京都…平安時代の頃は… | アナリスト杢兵衛の独り言

アナリスト杢兵衛の独り言

2022年11月20日…
突如として自身のブログに入れなくなりました。
ここにコツコツ再開します…
侍の矜持を体現する長谷川平蔵を愛する杢兵衛です…
なお前ブログ最終は以下にあります…
https://ameblo.jp/cma8836/entry-12775299616.html

ご来訪ありがとうございます✨

観光都市京都…

中でも…

東山界隈は人気ですね…

八坂神社…

高台寺…

そして清水寺…

今から千年余遡ると…

遺体を土葬にできない庶民達は…

ここの舞台から… 

風葬として…

遺体を投げ捨てていた…


https://www.leafkyoto.net/makai/2020/02/torinobe/


http://rekikenkiroku.blog.fc2.com/blog-entry-190.html


『京都坊目誌』によりますと、下京第廿一学区之部 歓喜光寺 遊行前町「東山通」東側高壇の地、

五百五十七番地にあり、元法国寺なりと記載されています。




現在の地図ならば、遊行前町557番地は陶磁器会館の辺りとなります。

法國寺は南無地蔵の南側に位置していたと地史 『菟藝泥赴』第三に、「法国寺は南無地蔵の南、正久寺の北にあり」と記されていますから、よって南無地蔵の位置は、陶磁器会館の北側で東山警察署の西、現在の宝福寺・東山消防署・東山総合庁舎の場所というのが判ります。明治35年(1902)の京都市実地測量地図にて確認出来ました。


大正14年(1925)新聞によりますと、関東大震災後、京都市内も消防機関の充実に向けて消防分署を建設する為の掘削工事を始め、その際、京都市東山松原下ル

※府立八坂病院内の空地から大量の「白骨」が出ました。一説によると蛤御門の戦死者を土葬したものでは無いかと記しています。

※ 京都駆黴院(クバイイン・明治9年(1876)設立。


後に遊廓のあった場所から命名された京都府立八坂病院から発展したのが、京都府立洛東病院(平成17年閉院)。

因みに明治43年(1910)12月、遊行前町すぐ北側の梅林町から発見の、他の遺骨数千体が大仏山(現:智積院裏の地蔵山墓地)に改葬され、真宗本願寺の僧侶で思想家の赤松蓮城(1841-1919)が供養の三界万霊碑を建てています。