トラック大空襲…
「ところが、この警戒配備が、なぜか解除されたんです。敵機動部隊が近くにいるのはわかっているのに、変だな、とは思いましたが」
飛行場に待機した零戦の機銃弾は、上空哨戒につく数機を残しておろされ、攻撃機の爆弾や魚雷もはずされた。非番の者には外出も許された。
そして2月17日――。
「早朝、まだ仮設ベッドに寝ていたわれわれは、突然の『空襲警報!』という声に飛び起きた。空はもう明るくて、よく晴れていました。その空を見上げて飛行隊長・肥田真幸大尉が、『グラマンだ!』と叫んだ。指さす方向を見ると、敵の艦上機はすでにトラック上空に飛来している。完全に奇襲を食った形になりました」
警戒配備が解かれていたので、トラック島の零戦隊の大部分は機銃弾も積んでいなかった。やがて燃料、機銃弾の準備のできた零戦から順に離陸し、敵機を迎え撃ったが、離陸直後の不利な態勢を襲われ、被弾して火を吹き墜ちるものも多かった。
空襲は翌2月18日も続いた。撃沈された日本側艦船は、艦艇10隻、船舶33隻にのぼり、そのほか12隻の艦船が損傷した。まさに真珠湾攻撃のお返しをされたかのような大損害で、失われた飛行機は、南方の戦線へ補充するため基地に保管されていた機体もふくめ、約300機にのぼる。
こうして、トラックは、海軍の拠点としての機能を事実上失った。壊滅したトラックに戦力を補充するために、最前線ラバウルに展開していた航空部隊はすべてトラックに引き揚げさせることになり、2年間にわたり南太平洋の最前線基地として、ソロモン諸島やニューギニアからの米軍の侵攻を食い止めてきたラバウルも、ついにその戦力を失った。これは、海軍が、南太平洋での戦いを事実上放棄したということでもあった。
【このときあったこと…】
このとき、敵機動部隊が近くにいるのがわかっていながら警戒配備を解いた理由について、公刊戦史の『戦史叢書』に書かれていない、しかし門司をはじめ現場にいた将兵のあいだで広く知られていた「公然の秘密」がある。
それは16日晩、痔疾のため内地に送還される第四艦隊司令長官(トラック島最高指揮官)小林仁中将の歓送会があり、主要指揮官がそこに出席、17日未明に奇襲を受けたときにはそれぞれが芸者と寝ていて、自分の島に帰れなかったというものである。しかも、せっかく出された警戒配備を解除したのは、この宴会のためだったという。この日の空襲で、芸者6人も爆死した。警戒配備が敷かれ、防空壕に入っていたら助かった命だった。
これ見て…兵隊たちの命をなんと思っているのか…そんなアホな…冗談だろ…
これては浮かばれないですね… 安全地帯にいる人の言うことは聞くな…が大東亜戦争の大教訓…
確かにそうですね…
旧参謀の戦後の英国放送のコメント聞くと…
なんと情けない…