心に残った名言の一つ…タモリさんの言葉… | アナリスト杢兵衛の独り言

アナリスト杢兵衛の独り言

2022年11月20日…
突如として自身のブログに入れなくなりました。
ここにコツコツ再開します…
侍の矜持を体現する長谷川平蔵を愛する杢兵衛です…
なお前ブログ最終は以下にあります…
https://ameblo.jp/cma8836/entry-12775299616.html

ご来訪ありがとうございます😊

今まで拝聴したお言葉…

その中で…

今も心に残った名言の一つです…


https://bunshun.jp/articles/-/11818?page=1 


タモリさんと赤塚不二夫さんとの…
不思議な御縁…
日本一の居候を自負するタモリさん…
赤塚不二夫さんの大きな度量…
なんかほっこりしてしまいます…

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 赤塚さんは、2008年8月2日午後4時55分、「肺炎」のため72歳で他界。 同年8月7日、東京都中野区の宝仙寺でしめやかに告別式が執り行われると、タモリさんは弔辞を贈られたのでした。

【タモリさんの弔辞】
 8月の2日にあなたの訃報(ふほう)に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。 
 われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第一世代と言っていいでしょう。あなたの今までになかった作品やその特異なキャラクター。私たち世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。

 何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して、九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーで、ライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。
 その時のことは今でもはっきりと覚えています。
赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに私はあがることすらできませんでした。 
 終わって私のところにやってきたあなたは「君はおもしろい。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるから、それに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションに居ろ」と、こう言いました。
 自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断をこの人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。

 それから長いつきあいが始まりました。しばらくは毎日、新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。
 お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと、ほかのこともいろいろとあなたに学びました。 あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。 
 赤塚先生はほんとうに優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると、相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところを見たことがありません。

 その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。
 しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことがありません。 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せる、あの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。

 あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも、目からはボロボロと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんのひたいをピシャリとたたいては「この野郎、逝きやがった」とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。
 あなたはギャグによって物事を無化していったのです。 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。
 それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ちはなたれて、その時その場が異様に明るく感じられます。 
 この考えをあなたは見事にひとことで言い表してます。すなわち、「これでいいのだ」と。

 いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月。伊豆での正月。そして海外へのあの珍道中。
 どれもが本当に、こんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。 
 最後になったのが、京都五山の送り火です。

 あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。 あなたはいまこの会場のどこか片隅で、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、ひじをつき、ニコニコと眺めていることでしょう。
 そして私に「おまえもお笑いやってるなら、弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。

 あなたにとって死もひとつのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは、夢想だにしませんでした。 
 私はあなたに生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。
 あなたも同じ考えだということを他人を通じて知りました。 しかしいまお礼を言わさしていただきます。赤塚先生本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品のひとつです。

 合掌。 

平成20年8月7日 森田一義


 弔辞はアドリブだった 

 こうして、心のこもった感動的な弔事を、手にしていた紙を何度も見返しながら、時折、涙声で読み上げたタモリさんですが、実は、手にしていた紙は白紙だったことが、後に判明しています。 
 そして、このタモリさんのアドリブの弔事は大きな話題となり、「私もあなたの作品の一つです」は、2008年の、新語・流行語大賞にもノミネートされたのでした。 

 弔辞は歌舞伎の「勧進帳」からのアイディアだった 
 
 ちなみに、タモリさんのこの白紙の紙、当時のマネージャーが「富樫(とがし)」という名前だったことから、歌舞伎の演目「勧進帳」を思いついてのことだったそうです。 
 というのも、この「勧進帳」、源義経と義経に仕える武蔵坊弁慶が源頼朝に追われ、京都から東北に逃げる途中、ある関所を通る際、 武蔵坊弁慶が、 都の大きなお寺の修理のために日本中を回って寄付(=勧進)を集める旅をしている と、嘘をつくと、頭の良い「富樫」という役人に疑いをかけられ、それならば「勧進帳」を見せるようにと迫られるのですが、 (※「勧進帳」とは、寄付の目的や寄付をしてくれた人の名前が書いてある帳面) そんなものを持っていない武蔵坊弁慶は、たまたま持っていた巻物を「勧進帳」として読み上げ、「富樫」を納得させて、無事に関所を通ることができたという話とのことで、知的なタモリさんらしいアドリブだったのだそうです。