「シャンティ・フーラ」よりの転載」

 

転載はじめ

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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第15話 ― 「私の描いた作品」

 

「昭和の妖怪」こう評されたのが岸信介(1896-1987)。「なるほど」と思わされる風貌の彼は長州の「田布施族」の一角です。安倍前首相の祖父でもあります。
 アベシは「地球儀を俯瞰する外交」などと称し、ODAなる看板を用いて湯水のように日本国家の資金を垂れ流し、その資金はアベシに金魚のフンのようについて回った企業に流され、アベシはそこからキックバックによって資金を獲得しています。絵に書いたような迂回によるマネーロンダリングです。他にもありますが、これがアベシの不正な資金獲得の主たるものでした。こうやって得た莫大な資金の蓄財が「安倍一強」と称されるような力となっていたのです。祖父である岸信介は「政治資金“ろ過”」(マネーロンダリング=資金洗浄)の名手であり、孫のアベシはそれに倣っていたのです。
 岸信介の場合、その「濾過器を通ったキレイな政治資金」の大方は阿片マネーでした。これが岸信介の「裏の顔」の一部分です。
 実験国家・満洲国を「私の描いた作品」とまで言い切ったとされるのが岸信介です。満洲国の経済産業政策を中心的に担ったのが岸信介であり、統制経済の満州「産業開発の5ヵ年計画」を計画し、満洲国実業部トップとしてこれを実施したのが彼です。こちらが岸信介の「表の顔」部分です。
 「裏の顔」と「表の顔」を使い分けた岸信介が、ある意味では満洲国を作り上げ、統制し、経営したのです。岸信介が満洲国の実質的な支配者だったのです。無論その岸信介の背後にはあのグループがあります。

(seiryuu)

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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第15話 ― 「私の描いた作品」

 

「二キ三スケ」の顔ぶれ 〜「田布施族」の「三スケ」


満洲国の実力者としてよく使われるフレーズが「二キ三スケ」です。「二キ」とは、東條英と星野直。「三スケ」とは、岸信、松岡洋、鮎川義のことです。

「二キ」の東條英機は日米開戦時の日本国首相で、満洲時代は1935年に関東憲兵隊司令官・関東局警務部長。 1937年には関東軍参謀長に就任しています。

星野直樹は1932年に大蔵省から設立されたばかりの満洲国建国に渡り、数々の要職を経た後に1937年に実質上の行政トップ国務院総務長官に就任しています。


東條英機

Wikimedia Commons [Public Domain]

星野直樹

Wikimedia Commons [Public Domain]


「三スケ」の岸信介については後述します。

松岡洋右は、1933年に首席全権として出席した国際連盟特別総会にて日本の国際連盟脱退を宣言した人物です。1935年に満鉄の総裁に就任、1940年には近衛内閣で外務大臣に就任。

鮎川義介は日産コンツェルン創始者で、満洲重工業開発株式会社総裁でした。「河豚計画」を提唱した人物でもあります。

松岡洋右

Wikimedia Commons [Public Domain]

鮎川義介

Wikimedia Commons [Public Domain]


「二キ三スケ」では「二キ」より「三スケ」のほうがより重要だと見ています。ウィキペディアの「弐キ参スケ」記事の中には次のようにあるのです。

鮎川義介・岸信介・松岡洋右の3人は満州三角同盟とも称された。3人はいずれも山口県周防地方の生まれ、育ちである。この3人の間には姻戚関係もある。

  • 松岡の妹婿の佐藤松介は、岸の母方の叔父である。岸の実弟である佐藤栄作は、叔父夫妻の長女で松岡の姪の寛子と結婚して婿養子となっている。
  • のちのことになるが、岸の長男信和の妻は、鮎川の従兄の娘である。


「三スケ」の3名は同郷、明治天皇・大室寅之祐の出身の長州・田布施の「田布施族」であり、姻戚関係で結ばれてもいたのです。竹下さんは2014/11/29の記事で次の指摘をされています。
 

堀川辰吉郎の直接の部下が岸信介。岸信介の部下が塚本素山、笹川良一。笹川良一の部下が児玉誉士夫。


岸信介

Author:Government of Japan [CC BY-SA]


裏天皇・堀川辰吉郎の直接の部下で、堀川辰吉郎の意志を満洲で実際に具現化していく役割を担っていたのが岸信介、その岸信介の役割をサポートする同盟関係の仲間が松岡洋右、鮎川義介であったと見受けられます。

この意味で「二キ」より「三スケ」のほうが重要であり、特に最重要人物が岸信介だと見ているのです。岸信介の満洲時代はウィキペディア記事では以下です。
 

1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。


岸信介が就任した国務院総務庁次長。総務庁次長とは、星野直樹が就いた行政トップの国務院総務長官に次ぐポストの行政No.2で、実業部門のトップです。予算編成は総務庁が握っており行政を仕切っていました。しかも星野直樹は大蔵省出身の財政の専門家で、実業には疎かったようです。

こういったことを踏まえれば、岸信介は「表の顔」として満洲国の行政を事実上のトップとして司っていたと言えるでしょう。そして彼には無論「裏の顔」もありました。

 

(続きはこちらから)

阿片マネーは濾過器を通せ 〜裏天皇アヘン人脈


満洲時代の岸信介について、ウィキペディアはこうも指摘しています。
 

この頃から、岸はどこからともなく政治資金を調達するようになった。


岸信介は次のような発言を残しています。
 

政治資金は、濾過器を通ったキレイなものを受け取らなければいけない。


岸信介が“濾過器”を通し調達した資金、その多くは阿片事業からの収益であったとみて間違いありません。公的事実として阿片事業は満洲国の国策であったのですが、太田尚樹著『』には次の記述があるようです。

満州国政府は、阿片の「専売局」を設けて、阿片販売の専売制(独占)を布いていた。

(中略)

満州国の阿片ビジネスを代表していたのが、岸信介だった。満州国政府の阿片を売る部署は、財務部の中の専売総局だが、この部署を作ったのは信介である。

岸が公的に阿片を売る部所として「専売総局」を作ったのは事実でしょう。阿片マネーを濾過する装置としてです。

岸は1937年の産業部次長を経て、1939年には総務庁次長に就任しているのです。石油・石炭・大豆・鉄道部品・武器……満洲国のあらゆる産業物は、経済産業政策を中心的に担った岸のもとに集積されて、仕分け捌(さば)かれていたのです。この満洲国の経済産業を支えた最重要産業物こそが阿片だったのです。

国策とした阿片事業の仕分け指導をしていた岸が、その阿片事業の収益から“資金洗浄”した政治資金を調達する」のは自然です。

岸が資金調達した相手先が、特務機関を主宰し、阿片事業を展開した二人の主役、甘粕正彦と里見甫となるでしょう。里見機関「阿片王」里見甫が「満州産アヘンを販売した」のは明らかで、里見と岸は阿片事業のパートナーの関係にあったでしょう。また、里見甫の墓に岸が
揮毫しているその関係の深さは既に指摘した通りでもあります。

甘粕機関「満洲の夜の皇帝」甘粕正彦と岸の関係については、『満州帝国史』に次の記述があるようです。
 

岸信介、甘粕正彦、満業トップの鮎川義介たちは、新京(満州国の首都)のヤマトホテルの特等室で、毎日のように顔を合わせていた。


これは岸信介の腹心の部下だった古海忠之という人物の回想録からの記述で、事実として間違いないでしょう。

彼らは初めから特殊な人脈で繫がっていたのです。里見甫は玄洋社(白龍会)関係者で、甘粕正彦は赤龍会総裁上原勇作と特別な関係にあった模様、つまりは裏天皇グループの要人であったのです。

一方、堀川辰吉郎の直接の部下が岸だったのです。こちらが岸の「裏の顔」になります。

 

岸信介と731部隊の密接な関係は公的事実


NHKスペシャル『調査報告 日本軍と阿片』の中で「昭和16年時、里見が売りさばいた阿片の額は3億元、当時の傀儡政権南京政府の国家予算に匹敵する額」だとありました。

こういった莫大な阿片マネーの一部が岸に流れていたのです。「表の顔」と「裏の顔」を併せ持つ岸は、実質の支配者として満洲国を統制していたのです。

 

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満洲国の運営として「満州産業開発の5ヵ年計画」がありました。これは当時のソ連の「統制経済」を模したもののようです。「満州産業開発の5ヵ年計画」は、岸が満洲国に赴任した1936年10月から動き始め、1937年早々にスタートしています。

岸は「表の顔」行政・実業のトップとして「満州産業開発の5ヵ年計画」を遂行したのですが、「満州産業開発の5ヵ年計画」は岸が満洲国赴任前からその計画・作成をしていたもののようです。経済産業政策を中心的に担った岸が支配者として満洲国を統制していたのです。

「満州産業開発の5ヵ年計画」は岸の「表の顔」ですが、公的事実ながら、岸の「裏の顔」で現在日本に直結している重大な人脈があります。あの731部隊です。

満洲で残酷な人体実験を繰り返した731部隊の人脈が岸と結びついていて、それが現在までも続き、日本社会に多大な影響を与えてもいるのです。

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731部隊のウィキペディア記事の「沿革」には次のようにあります。
 

1936年(昭和11年)4月23日、当時の関東軍参謀長 板垣征四郎によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」で関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号により正式発足した。(中略)...部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した。


また、731部隊が脚光を浴びたのは1939年の「ノモンハン事件」で、そこから本格的に組織拡大がされているのです。これらは時期として岸が満洲国に赴任し、産業部次長、総務庁次長に就任していくのと全て重なっています。

731部隊の生物・細菌研究という性格から、その研究と組織拡大は岸の許可なしにはありえません。731部隊長の石井四郎の上司が岸だったのです。

岸と731部隊の裏の人脈から現在にいたる「闇の系譜」についてはいずれ、一部は次回にでも…。

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転載おわり