銀狼ちゃん。体調不良で、映画三昧。(1)高峰秀子さん主演の初期作品で知る”男尊女卑”の凄まじさ | 銀狼の銀河の荒野

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人よ
お前は何処に問い掛ける
その指先にある 自らの未来を
お前が俯いた地の底にある無尽蔵な恵みを
肉体と魂を貫いた光が衛星となり
お前の行く末を守るだろう
銀河の荒野に響く 絶え間無い調べとなり





  

 

「永遠の人」

小作人の娘、さだ子は大庄家の息子に横恋慕をされる。

さだ子の実父も、低姿勢を貫きつつも主人である大庄家に抵抗し反論したが無駄だった。

激しく拒絶するも、許婚の出征中に暴行を受け強姦されてしまう。

 

大庄家もこの息子も、女性を蹂躙する行為に全く悪びれない。

それどころか、”思いを遂げた”と誇りさえする。

その上、”わざわざ、嫁に迎えてやるのだから感謝して当然”と言わんばかりの対応に終始する。

 

さらに、驚愕したのはさだ子の許婚だ。

彼は、帰還して事実を知ると一度は「駆け落ちしよう」と約束する。

しかし、当日になるとすっぽかして単独で村から出て行った。

この時のさだ子の絶望は、想像するに難くない。

 

そして、数年後。

さだ子と再会した彼は、びっくりした様子で「君は、幸せになったとばかり思っていた」等と宣うのである!!

 

俺は、湯呑を落としそうになった。

自分を純粋に恋し思い続けていた女性が、意に染まぬ相手から性暴力を受けた。

さらに、その当事者に嫁がされて”幸福になった”なんて何処をどう押せばそんな頓珍漢な発想が出てくるのだろう。

 

さだ子本人は、俺から見たら鈍感極まりないこのぼんくら元婚約者を変わらず愛し続ける。

彼本人がどんだけ馬鹿だったとしても、地獄の様な現実の”結婚生活”からもしかしたらもしかしたら救い出してくれるかも知れない幻想の”白馬の王子”として思い込み続けるしか無かったのだろうか。

 

彼女は、自らを凌辱した夫を許せない。

その時に身籠った、長男も愛せない。

結婚したと言っても、実父はこき使われさらに義父の介護までさせられる。

 

夫婦仲は最悪で、夫は長男は可愛がるが妻となったさだ子には暴言と嫌がらせをし続ける。

長男は、思春期を迎えると近隣の噂等から”両親の実態”をそれとなく察する。

父親は金品でその場凌ぎの満足を与えてくれるが、母親はどんなに求めても冷たく背を向けている。

その虚しさに気付き、買って貰った高級時計を弟に渡し自殺してしまった。

 

それでも。

周囲は、”大庄家に見初められ、金満家に嫁いだ幸運な女”と捉え続ける。

 

その様な無神経さは、現在でも世界全体を覆っている。

各国の支配層富裕層に過去から現在まで間断無く蔓延する、”喜び組”的構造。

 

「”強い男”は、気に入った女性をものにすれば良い」と言う、公然とした意向。

日本でも、強姦事件が起こった時「(凶行に及んだ男性は)元気が良い」と評した政治家がいた。

 

女、特に美人は”強い男”が獲得するトロフィー(賞品)と位置付けられてしまっている。

元婚約者も大庄家の息子も、さだ子に”心”がある事が判らないのだ。

女は、感受性なんか持ち合わせておらずただ”衣食住”さえあれば済むとしか考えていない。

 

(2)「華岡青洲の妻」

今度は、高峰秀子さんは若尾文子さん演じる嫁を暗に虐げる姑を演じていた。

 

医業を営む華岡家の夫人・於継は自らの目で息子の嫁を選び娶る。

ヒロインの加恵は、何と”花婿がいない”状態で縁談を持ち込まれ返答をして祝言を挙げる。

相手にしているのは、姑となる於継また小姑である於継の娘達だけであった。

 

家に入った早々、家事雑事は勿論機織り仕事も教え込まれる。

於継も義妹達も、全員が丸一日働き通しの同様の暮らしをしている。

 

織物は売られ、収入となりこの家の惣領息子たる青洲に贈られる為だった。

青洲が帰還すると、一家総出で歓喜し”跡継”として玉座に迎えられた。

 

加恵は、嫁として彼の横に並ぶどころか終始”外様”扱いにされる。

姑と寝させられていた部屋から、夜中に寝間着姿で追い出され待ち受ける”花婿”の部屋に行かされる場面もまるで犬猫の様だった。

 

そう思うと、「永遠の人」のさだ子も同じだった。

”実家”から”大庄家”に、元婚約者から大庄家の息子に抓み出されてぽんと置かれる犬猫に似ていた。

 

義妹達も、医師の家に生まれ育ちながら贅沢とは無縁だった。

婚期すら逃し、重病に倒れて果てるまで真黒になってひたすら働き続ける。

 

全ては、於継のただただ”嫡男・青洲大事”が招いた結果である。

彼女もまた、自らの感情も実娘や嫁達への愛情も抑圧し続ける。 

そうして、華岡家を営んで来たのだから。

 

男子だけが、家名を継ぐ”人間”で女子はそれを支える為の”繋目”でしか無い。

古文書でも、男子は氏名が残されるが女子は”女”としか書かれない。

 

これが、ほんの数十年前の日本女性の”日常”であり”生涯”だったのである。