淀駅が完全高架化されて上りのみに使用されていた駅舎も封鎖された。記憶の彼方に消えてゆくのだろうか。



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最近気になる「いわゆる」街の中華屋さん。
ネットで検索してもあまり情報が得られないような。
でも入るのもちょっとエナジーがいるという。
世間的にはB級扱いなんだろうな。

●六波羅裏門通大和大路の「北京亭」
●六道の辻の「六波羅飯店」
●河原町松原の「龍都」
●塩小路須原の「精華園」

ここら辺は外見が自分好みの渋いタイプで、地元のおっちゃんがメインユーザー。
基本的に一見は少ない。ネット上の有名サイトなど全く無関心。無関係。無縁仏。
しかしながら常に一定の客で賑わっており、確実な固定客によって支持されている良店と思われる。

すなわちリサーチした結果は決して地雷ではないと確信があるんだけど
残念ながらまだ未踏の空間となっているのだ。
よし。とにもかくにも今週中にこのどれかには必ず行くことにしよう。
六波羅飯店はハッピー六原に買い物に行く時にいつも通るので、いつでも行けそうな気がするので
それ以外の店をぜひとも試してみようと思う。

ちなみに店名は伏せるが開店時から数年間スルーしてきた東山区内の某ラーメン店に酔っ払った勢いで昨日ついに入店した。しかし、自分が今までスルーしてきたことが正しかったということが身を以て証明される形となってしまった。ビールを飲みつついろいろ様子を伺っていたが、最終的にラーメンを食べて店を出るまで客は自分一人のみ。

店主はずっとナインティナインの番組とイモトなんとかの番組をひたすら交互にチャンネルを回しつつ
15秒に1回のペースで微妙な音量の笑い声を上げていた。たまに飽きるとネットに目を向ける。それ以外は一切何もしようとしない。味もまあ言わずもがな。

そもそも自分が入店した時もまったく気づいてくれなかった。店主の前を横切り、着席したところでようやく「いらっしゃい」という声をもらった。その時はネットに夢中だったようだ。

これでなぜ店を閉じずに一等地で営業し続けているのか。これは裏があるに違いない、と僕は思う。思わざるを得ない。

まあしかしいわゆる典型的な地雷店であったが、とは言えああいう誰も寄り付かないような店を決して嫌いになれないという変態的性癖と、隠された裏を確かめたいという謎の好奇心が「また行ってもいいんじゃないかな」という心の隙を生んでいることもこれまた事実。

これって店だけじゃなくありとあらゆるジャンルでこういう気持ちになってしまうのも否めない。B専などとよく言われた記憶が思い起こされた。


 「KYOTO FOEVER 2005~」↓
 http://orange.ap.teacup.com/kyotoforever/

 たまにつぶやいてます。↓
 http://twitter.com/#!/shonenwho
先日京都駅前でまゆまろに遭遇した。
まゆまろ。かわいいやつだ。

管理者によればつがいの「まゆ子」というキャラもいるらしい。
ただしはぐれメタルなみの出没頻度でかなりレアなキャラだそうだ。
ぜひとも一度拝んでみたいものだ。

今日は久しぶりに太陽が出てるので洗濯がはかどる。
そう、今日はオフなんだ。
地味に3連休だったりする。

ただそれに奢らず焦らず今日は洗濯をしっかりして、たまっていた宿題をすることにしよう。
夜はきっとビールを求めてふらふらと街を徘徊するはずだから。

 「KYOTO FOEVER 2005~」です↓
 http://orange.ap.teacup.com/kyotoforever/


 たまにつぶやいてます。↓
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震災時は横浜にいたこともあり、また実家の近くで製油所の大火災もあったことで
関東方面で何が起こっているかというのをささやかがらも分かっているつもりだけど
こうして京都にいるとそれが嘘のように平穏な雰囲気が漂っているのが不思議でもあり平和なことでもあり。
でもそれが逆にこわい。

今週末に再び首都圏に行く予定があったのだけど、行く目的にいくつかがやはりキャンセルになってしまった。
とりあえず実家に行くという目的もあるし、やはり離れていると気になるということもあって
予定通り行こうかとは思うのだけれど、それでも日々変わる情勢を考慮せざるを得ない。

ここで政府批判がいいのかどうかは分からないが、緊急時にみんなが必要としていることについて
迅速に動いているのは今まで長くいろいろな組織とつながりの深かった自民党やら前の与党であって
残念ながら今の与党がこの緊急時に国民の立場に立って尽力しているかどうかというと疑問を抱かざるを得ない。

福島の原発にしてももはや自衛隊や消防、警察に丸投げで説明の責任も天下り組織の原子力保安院が
苦しい説明を繰り返すばかりだ。

民主党という名前だけで一昨年の夏に大量当選した無能議員はこの緊急時に何をすることもできないから
ある者はアロマキャンドル自慢をし、ある者は海外での観光旅行を自慢する。無政府状態だろこれ。

もちろん尽力してる人だっているんだろうけどさ。世間では官房長官が不眠不休でテレビに出て来るから
民主党は不眠不休で頑張ってると思ってる人もいるみたいだし。頑張ってるのは官房長官だけだろ。
「僕は原子力に詳しいんだ」なんて寝ぼけたこと言って作業の邪魔をするような人間が首相だもんな。
まったく困ったものだ。

なんて吐き散らかすのはやめよう。
久しぶりの新福菜館(堀川三条)は変わらず美味かった。
あそこって持ち帰りもできたっけ?

ツイートなんぞしてみたり
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日暮し。



京都という街が、僕は好きだ。



この街を徒然なるままに歩くこと。

この街で徒然なるままに酒を飲むこと。



年末が近づくと「いつまでこうしてられるのかなー」っていつも思ったりする。

自分の行く末ってどうなるんだろうかとも。



ああ、そんなことも考えずに「徒然なるままに日暮し」したいなー。




ご無沙汰です。夏の終わりは思い出をたどってばかりで駄目ですね。駆け込みの思い出を作るためにうろたえ、その思い出にすがって現実逃避する。夏の終わりはいつだってそうです。

ここのところの気候は夏がよみがえったかのような日中の暑さですが、朝夕はやはり秋のそれですね。夏は本当に素敵な季節ですが、日に日に澄んでいくような秋の気候もまた好きです。


KYOTO FOREVER

ここでなぜか京都タワー。京都タワーを初めてみた時はいつで、どんな感想を抱いたんだろう。思い出そうとしても思い出せません。ひとつ思い出した古い思い出…。あれは僕が高校生で修学旅行で京都にやってきた時のことです。今となってはすっかり京都での生活も長くなり、毎日のように京都の街を駆ける修学旅行生を見ても何も感じなくなりましたが、自分もかつてはあの一員だったわけですよね。

友達と二人で地味に京都の街を巡ったことを思い出します。二人きりという時点で集団行動から離脱した反社会的なものを感じますけどね。悪ガキでした。そんな京都二人旅で同じく修学旅行で来ていたとある女子高の学生と何故が仲良くなったんですね。

何故か、というとそこに偶発的なものを感じますが、おそらく能動的なアクションもあったのでしょう。僕と連れは金閣寺の拝観もそっちのけでその子らとの交流を必死で深めておりました。ああ本当に下品で情緒も何もない高校生ですな。最近観た『色即ぜねれいしょん』のような儚くも美しい高校生の思い出にも達しないほどのレベルだったと思うんです。

当時は携帯電話など高校生にまで普及していた時代ではありませんから、短時間でもっと仲を深めるためには限られた旅行期間の中でもう一度会う、すなわち落ち合う必要があったわけです。ときたらとにかく僕らは必死でした。次の日は地元に帰るスケジュールでしたからその晩が勝負とばかりに夜に街で会う約束を半ば強引に取り付けました。場所は京都タワー、時間は8時。もちろん宿を抜け出すこと前提です。

僕らはなんとかなると踏んでましたが、相手は女子高生ですから宿から抜け出すなんて容易いことではなかったと思うんです。それでも僕らは必死でしたからそこは若気の至り的な勢いで彼女たちのOKを取り付けることに成功しました。彼女たちも自由時間を利用して絶対に行くよ、なんていう力強い言葉を僕らにくれたのです。

その日の晩は部屋ですき焼きでした。とは言え僕らは時計が気になってますから、肉なんぞどうでもいいとばかりに目配せをするのです。まわりの人間は僕らが全然箸をつけないことにいささかの不信感を抱いていましたが、今目の前にある肉に夢中で固執する向きでもありませんでした。たとえそうでなくても僕らのような反社会的な高校生が夕食を囲むテーブルから消えようと、おそらくいつものことだと思っていたのかもしれません。

僕らはその時が来たとばかりに箸を置いて部屋を出ました。そこから街へ飛び出すまではおそらく光の速さに限りなく近付いた瞬間だったかもしれません。そして慣れない市バスに飛び乗って京都駅に向かったのです。市バスの中で僕らはほとんど会話を交わしませんでした。おそらく僕も連れも緊張していたんだと思います。冒険の先に待ち受ける耽美な刹那の邂逅への期待は僕らを確実に沈黙へと導いていたのです。旅の恥は掻き捨てと言いますが、旅の力と若さの融合がいま僕らを京都タワーに向かわせていたのです。

バスはいささかの交通渋滞に巻き込まれ、京都駅についたのは約束の時間のほんの少し前でした。僕らは何も言わずに京都タワーに向かい、エレベーターに飛び乗り展望台を目指しました。これほどエレベーターがじれったいと思ったことはなかったかもしれません。上を向いても速くなるわけではないと分かっているのに僕と連れは顎の筋肉がいかれるほどに上を向いたまま展望台に着くのを待ちました。

すうっとエレベーターの扉が開き、逡巡することなく入場料を支払うと一目散に展望台に向かいました。昼間の彼女たちの姿はありません。僕らは焦る気持ちを抑えつつも展望台を一周し、彼女たちを探しました。しかしやはりそこには彼女たちはいませんでした。「まだ来てないのかもしれないよ」どちらからともなく僕らは同じセリフをほぼ同時に吐くと、それぞれが逆の方向に歩き始めました。そして一周の後にそこにいたのは連れでした。

彼の顔に明らかな焦りが見えました。僕も同じように焦りの表情を彼に呈していたのでしょう。それから僕らは数分間言葉を発することなくただただ展望台を徘徊しました。気がつけば約束の時間から1時間が過ぎていたことに気づいたときはすっかり身も心も疲弊し、僕らはゆっくりとその場に座り込みました。

「俺たち何やってんだろうな…」彼の言葉が僕の心にゆっくりと刺さり、僕はその苦しみから逃れるために「本当に何やってんだろうな…」という言葉を返しました。彼の顔が確実に落胆するのが手に取るように分かりました。と同時に自分の顔が落胆するのも自覚したのです。

「夜景…綺麗だな」苦し紛れに放った僕の一言で連れはゆっくりと立ち上がりました。
「ああ。星も綺麗だよ」
彼はさきほどの落胆から解放されたような、少し笑みを浮かべたような表情で僕にそう言いました。悔しさを含んだ笑顔だったのかもしれないけど、僕は彼のその表情に何かが救われたような気がしてゆっくりと立ち上がり星空を眺めました。異郷の地で眺めた星空は少しばかり切なくて、でもその分だけ優しく瞬いていました。僕らはお互いに顔を見合わせると、何も言わずにエレベーターに乗り、宿へと向かったのでした。そこにあるのは心地よい疲れと二人だけの秘密を作ったちょっとばかりの恥ずかしさだけでした。


…今思えば高校生にもなって何をやってるんだろうという記憶のひとつですが、携帯もない時代の刹那にかける情熱や、旅先という非日常が後押ししてくれた冒険心こそがきっと僕らの求めていたことだろうし、女の子と仲良くなる云々なんてのは結局そんな冒険心の材料にしか過ぎなかったんだろうなと負け惜しみながらもそう思うのです。

ただあれから幾数年の歳月を経たわけですが、女の子がらみの行動になるとあの頃となんにも変わってないような気がするのはなーんも成長してない証拠なんだろうな…。ああ男子ってダメだ。僕だけかな…。

僕にとっての京都タワーはそんなジェネレーションの思い出の場所でもあったりするのでした。


昨日は五山の送り火でございました。某所にて人込みの中大文字を、そこから冒険的に移動してまた某所からゆるりと舟形、左大文字、鳥居型を眺めてまいりました。わずか1時間のうちの出来事なので毎年どこでどう眺めるかが思案のしどころですが、今年はアドリブで冒険してみましたが結果としていい送り火鑑賞になりました。詳細・画像はまたのちほどアップします。

というわけで写真です。三脚を忘れたのでほとんど写りは悪いのですが、僕の心にはしっかりとはっきりと送り火は焼きついておりますw

今年はあれこれ考えましたがあれこれ考えるのが面倒なので家から歩いていける範囲で大文字を見ようと鴨川の方に向かいました。場所は御池大橋のあたり。どれくらいの人手になるか予想できなかったので、もし人が多くても河原でビール飲めればいいやという具合でした。で人手はやはり多く、人ごみからの大文字鑑賞となったわけです。木屋町御池ですが結構な人手でしたね。まあ1年に1回のイベントだもんな。同行者は「まつりみたいでこれはこれでいい」って言ってました。


KYOTO FOREVER
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とはいえ、これで帰宅してはもったいないとここから冒険に出ました。電車に乗って某所に移動です。所要時間は電車の待ち時間も含めて約10分。大文字の点火が午後8時で、最後の山の火が消えるのが午後9時前ですから、そのわずかな時間の中での移動であります。われながら暇人だなー。


KYOTO FOREVER

さて某所に到着。場所は諸事情のため書けませんが、なんとなく分かる方は分かるかと思います。日ごろからこの場所は五山がよく見渡せるなーと思ってたので思い切ってきてみました。これが素晴らしい眺め。衣笠の左大文字と船形がよく見えます。左大文字は(右)大文字に比べて小ぶりではありますが、その分しっかりとその輪郭を見て取ることができます。(右)大文字が男性の字とするなら、こちらは女性の字っぽいですね。

KYOTO FOREVER

そして五山の送り火のうち最も中心部から離れたところにある嵯峨の鳥居型。山が低く、斜面もなだらかで遠くにあることもあってなかなか市内から見ることが難しい山の1つですが、ここからはバッチリ拝むことができました。画像が悪いのが残念ですが。

KYOTO FOREVER
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何年か前に鳥居のふもとで鑑賞したことがあるのですが、臨場感があってすごいですね。他の山とは違った別世界のような雰囲気がそこにありました。ただ遠く左京に大文字が点るのを嵯峨野の地から見たときは感動的でした。遠く離れたところではあっても一体感のような不思議な感覚が生まれるのです。

KYOTO FOREVER

某所とはこんなところです。さて来年はどこで見ようかともう来年のことを考えてしまうのですが、この送り火が終わると夏が終わったような寂しい気持ちになってしまいますよね。センチメンタリズムですよ。それでもこの夏の終わりの切なさを払拭するべくまだまだイベントを企画してます。

夏といえば祭、旅・・・。祭りに関しては昨日も新風館のイベントに足を運んできたのですが、学区の盆踊りなどまだまだあるようなのでささやかながら楽しみたいと。旅に関しては8月中の予定としては明石あたりに小旅行を企画してるのと、あと日帰りでお伊勢参りに行ってこようと思ってます。秋風が吹いても僕の夏はまだまだ終わらないぞ・・・と。

 
さて一日中曇天で湿気たっぷりだった8月15日。一日中洗濯物を気にしながら家で費やした時間に終わりを告げて外に出たのが午後五時。外はやはりじめじめとした驚くほど不快な気候に、まちなかは人も多く、この曇天の空の下、霊山を目指して歩く。瞬間的に汗が滲み出たがめげずに東へ。

松原大橋を渡り鴨川を越えたところで自動車と自転車の接触事故を目撃してしまった。典型的な左折巻き込み事故であった。お盆は休みでたくさんの人が運転することもあるし、いろいろ言われていることもあるし事故が多いから気をつけねばなるまい。気持ちを引き締めて六波羅を抜ける。霊界への入り口はまだお世話になるまいと横目にやり過ごしながら東大路清水道へ。墓参りと観光の車や人が入り乱れている。なるべく人の少ない道を縫いながら八坂の塔道から霊山へと向かった。


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この湿気の中の登坂はえらいしんどい。でも振り返ると見える景色が疲れを癒してくれる。左手に二人男性が立つ建物は現在は「京大和」という料亭であるが、もともとは「翠紅館(すいこうかん)」という屋敷であった建物だ。もとは公卿の鷲尾家の山荘で、のちに西本願寺に寄進された建物である。

そしてこの翠紅館は幕末に京都を駆けた志士たちが集い、新たな時代を模索した話し合いを行った場であることでも知られている。梅田雲浜、武市半平太、坂本龍馬、桂小五郎、久坂玄瑞、井上聞多ら著名な幕末志士たちがこの坂を登り激動の時代の行く末を談じていたわけだ。


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霊山護国神社。東京九段の靖国神社ごとく全国各都道府県に建立された招魂社を起源とする神社だ。日本国のために殉じた英霊を祀る神社で、それは幕末維新に殉じた霊を慰める目的で作られたことをその始まりとする。ゆえに特に有名な坂本龍馬・中岡慎太郎・久坂玄瑞・木戸孝允の墓をはじめ、多くの志士の墓が境内東の山腹にびっしりと建てられている。その後も明治大正昭和と、外国との戦争で祖国のために亡くなった英霊を祀っている。8月15日は京都府出身の戦没者慰霊の式典が行われるのだ。


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京都府から先の大戦で徴兵された兵士の多くはビルマ戦線に送られ、過酷な環境の中で戦った。そして多くの兵士が遠く熱帯の地で斃れていった。後ろの階段が幕末明治の志士たちの墓に通じる道であるが、この日もそちらへの参拝客は多かったようだ。だがその多くの人たちが終戦の日に本殿に手を合わせることなく神社を後にしていたことがいささか残念なことでもあった。


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先人があって今の僕らがいるということはいつの時代でも変わらない。それが江戸時代の人間であれ、昭和の人間であれ、家族のため地域のため国のために駆け亡くなった人々には強い感謝と敬愛の念を表さざるにはいられない。

さてさてまるで頭から水をかけられたかのように汗でびしょびしょになってしまった。風がないのだ。とは言え夏のひとつの個人的儀式を終えた充実感からか、帰りは下り坂だからか、足取りは軽い。「ねねの道」では人力車の車夫がずらりと並ぶ光景を横目にして「石塀小路」を抜けて家へと向かった。


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どんなに観光客が多いときでもこの石塀小路は静かで落ち着いている。電柱がなければもっと素敵なまちなみなんだろうなと思う。左側は「片泊まり」の宿「田舎亭」。田舎亭といえばあの「京都迷宮案内」で橋爪功扮する杉浦記者と北村総一朗扮する大洞署長が下宿しているその名も「田舎亭」のロケ地だ。


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反対側から。この2階の窓で杉浦と大洞がいろんなやり取りをするシーンが思い起こされる。この石畳を杉浦記者が駆けるシーンも多い。

とかなんとかドラマのことも思いつつ、八坂神社を抜けて帰宅した。これだけ汗をかいたもんだから喉も激しく渇き、なんともビールがおいしかった。

今日は五山の送り火ですなー。どこで見ようか思案中・・・。

今日は終戦の日。日本という国のために傷つき、斃れた人たちのことを思わずにはいられない日だ。この日はお盆とも重なって、先祖や亡くなった人を特に身近に感じる日でもある。僕の父方の祖父は終戦の直前にフィリピンで戦死した。終戦間際のフィリピン戦線はもはや玉砕に近い戦いであったから、数多くの人が斃れ、その屍はフィリピンのジャングルに溶けていった。祖父ももちろんその骨があるわけでなく、小隊において戦死が確認されたという書類だけの死であった。

そんな父方の実家に遊びに行くのが少年時代の夏休みの大きな楽しみであった。少年時代の夏の記憶は父の田舎の景色だといっても言い過ぎではないと思う。「ぼくのなつやすみ」さながらの世界がそこにあったわけだ。

祖母が昨年末に亡くなり、今年の夏はいわゆる新盆ということで数日間、父の田舎である岡山を訪ねた。葬儀やら法事やらで今年はすでに何回も足を運んでいたものの、やはり「夏休み」に行くというのは何か感慨深いものがあった。少年時代のドキドキした気持ち、どこか遠くへ冒険をしにいくような気持ちを今でも感じることができたことがとても嬉しかった。

東京近郊に住んでいた少年時代の僕にとって、岡山の田舎は本当に遠い場所だった。そこにある自然、祖母の優しい笑顔、やんちゃないとこたち…。そのどれもが日常から大きくかけ離れた夢のような世界で、少年時代特有の冒険心と好奇心とあいまって、それは本当に美しい思い出だったんだと思う。

月日は流れても「夏休みに田舎のばーちゃん家へ」というイベントを思うと、胸がきゅんとした。それは僕にとっての旅の原体験でもあり、原風景でもあった。だから京都の大学に入学してからの夏休みは自然と中国地方に足が向いた。中国山地を駆ける鉄道に乗ることが学生時代の楽しみであり、少年時代の記憶を辿る旅でもあった。ただあれだけ遠く感じた場所へ、比較的簡単に行けるようになってしまったことだけがほんの少しばかり寂しくもあった。ただ―ただそれでも少年時代の記憶は優しく心の中に生き続け、その記憶を少しでも触れたくて僕は旅をした。

その学生時代からもどれだけの歳月が経っただろう。歳月はみな平等に訪れる。自分だけが記憶の中に生きていても周りは決してそれと同じではない。久しぶりに会う人間の変化は時に切ないものだ。ただそれが流れていく時間の中で生きている僕たちにとって至極当然のことなのだ。

それでも、かつて夏休みに過ごしたようなドキドキ感は失われていないと僕は思った。ひょんなことから花火をすることになって、いい大人が無邪気に楽しむことができて、僕はそれだけが嬉しかった。あの頃と違うことがあるとしたらビールでほろ酔いだったということくらいかもしれない。空を見上げたら見たことも無いくらいの、いやあの頃に見たはずの星が無数に煌いていた。このまま時間が止まればいいと思ったのは嘘ではない。

夏という季節は大人になった今でも何か起こりそうなドキドキ感があって大好きだ。たとえうだるような暑い日が続いてもそれでも僕はやっぱり夏が好きだ。夏の思い出を後に現実に引き戻される切なさがあることを分かっているけれどそれでも夏が大好きだ。夏の終わりが近付き、少しずつ涼しい風が前髪を揺らすような季節の変化に儚さを覚えてもそれでも僕は夏が好きだ。ぎらつくような期待感と冒険心、そして祭のあとの切なさ。すべてをひっくるめて夏という季節の魅力なんだと思う。

盆の行事を終えて京都に戻った。旅の終わりはいつだって切ないけれども、田舎からの帰宅はよりいっそうだ。夏もあとわずかだけれども、その夏の名残を少しでも楽しんで傷心を癒したいものだ。そして今日は8月15日。霊山護国神社に祈りをささげに行こうと思う。



先日の「鴨川納涼」の画像アップの準備ができました。渋いイベントの一部を。


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「子どもたちに美しい川をのこそう」。その通りです。三条大橋側のゲートに掲げられた美しい文言に神妙な気持ちでそれをくぐるのです。


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各ブースにはさまざまな「教室」が設けられていて日本の伝統文化に触れることができるのです。素晴らしい…のですが雨のせいなんでしょうか、「将棋教室」はとある家族がまるで我が家のごとく対局を楽しんでおりました。いやホームを離れた対局場だからでしょうか、そこはかとなく漂う緊張感にいささかたじろぐ自分がいるのです。いやしかし一家族で将棋教室。これこそ地元に根ざしたイベントの醍醐味!将棋はそこそこ好きな自分ですがこの緊迫した空気にはとても入り込むことができませんでした。まるで「月下の棋士」の世界だ!


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そして「囲碁教室」。…うむ。先生とおぼしき青年と少年がガチンコで対峙。長考すること幾数分。それを見守るのはたったひとりの少女…ならぬ幼女…。

ドラマのワンシーンのようなこの緊迫した空気にも当然入り込むことなど出来るはずもなく、レンズ越しに緊迫感をわなわなと感じ取ることが精一杯のこの空間はさながら「ヒカルの碁」の実写版といったところでしょうか。あまりの衝撃的な光景に言葉が出ません。

この二つの教室だけでもひるんでしまった僕は、他にあった「生け花教室」「琴教室」「尺八教室」等々もろもろの教室の前でもたじろぎ、結局何一つ学ぶことのできない愚か者で終わってしまった次第なのであります。

しかし「鴨川納涼」。このイベントを駆使することができるのならば日本文化レベルがきっと格段に上昇するはずだという興奮を覚えつつも15分という滞在にてこのイベントを去ってしまったことを今とても残念に思ったりもするのです。

というわけで次回「鴨川納涼」。ぜひ足を踏み入れることから始めてみることをそれとなくお奨めします。