多門重共は、江戸時代の旗本であり、多門伝八郎(おかどでんぱちろう)と通称で呼ばれることが多いのだそうです。さて、この多門氏が何故有名人になったかといいますと、元禄赤穂事件において、加害者である浅野長矩の取り調べと切腹の副検視役を務め、その後に書物として残した「多門筆記」に浅野氏の様子を詳しく書き残したからです。多門氏は目付役として浅野氏の取り調べを行い、「刃傷は故意とか計画性があったものではなくて、乱心とか勘違いですよね?」という誘導尋問をして浅野氏を助けようとしたとも言われています。また、多門氏は「で、吉良はどうなりました?」と尋ねる浅野氏に「彼は老人ですからね、恐らく助からないでしょう。」と好意的な虚偽の報告をしたともいわれています。

 

その多門氏なのですが、なんと偶然、私の学校の先輩に多門さんの子孫の方がいらしたのです。このご家族は今は”おかど”、ではなく、”たもん”さんと名乗っておいでだそうです。そしてその多門先輩がご先祖の多門伝八郎さんの直筆の取調の記録を持って学校を訪ね、私達に現物を見せて下さいました。 ナントカ鑑定団の番組に出演されても良いぐらいの品物です。 記録は巻紙に書かれていて、それを開いて見せて下さったのですが、勿論全く読めず、何が何やら。でも、本物の迫力は感じられました。私達がまだ子供で物事の価値がまだよくわからなかったのが残念で、今でしたら、目をらんらんと光らせて読むことでしょう。(読めませんが)

 

取り調べの記録においても、多門筆記においても、多門氏は一貫して、親浅野氏の振る舞いをしたと書いてあります。しかし、この多門氏には虚言壁があり、事件以来、庶民の気持ちが浅野氏に傾く傾向をみて、「私ってこんなに浅野氏に優しかったんですよ~」とアピールする気がムンムンで、少なからず「自分を良い人に見せるための脚色があったのではないか」とも言われています。

 

事件の影に女あり、ではなく、どの事件の影にも各人の思惑や忖度があるのでしょう。(続きます)