先日、東京近郊の川に仲間と鮎釣りに行き、350匹も釣ってきました
けっこうな釣果ですが、不思議だったのは鮎が小さかったこと
9月中旬ともなれば腹に子を持った落ち鮎の季節なのに、どうしたわけかこのとき釣った鮎の大きさは半分くらいで、6月の琵琶湖のコアユ(小鮎)かと思うほどに小さかったのです
たとえ放流の鮎でも大きくなるはずですし、仮に何らかの事情で鮎が川を上ってくるのが4月から9月にずれ込んだのだとしても、小さいことの理由にはなりません
自然界には実に不思議なことがあるものです
しかし今回のテーマは自然の不思議ではなく、
人間の行いの不思議について
それは漁業権など、自然の生き物を獲る(採る)ことに関する制限やルールが、いつ始まったのだろうということです
これは仲間とたまに話題にしますし、先日の鮎釣りでも感じたことでした
鮎を釣った川には鮎釣りのルールが適用されていて監視員もおり、規定の料金を支払って釣ります
一方、その川からほんの数キロしか離れていない隣の川には特にルールはなく、いわば獲り放題です
それ自体、とても不思議なことだと思うわけです
ちなみに、鮎釣りのルールは主に都や県レベルの条例で定められていることが多く、たとえば鮎釣りが解禁になってしばらくの間は毛鉤オーケー、その次は毛鉤禁止で友釣りのみというように、時期に応じて漁法を変えていくのが一般的です
これは通常、極めて厳密に定められています
ちょうど、素人が海でサザエやアワビを採ると監視員に捕まるという話と同じですね
こうした例ならば私にも理屈がわかります
つまり、「投資」して鮎やサザエやアワビを育てた者がいるなら、投資していない者がそれを掠め取っていくのは泥棒と同じということです
ところが一方で、誰も投資していないのに魚介が育っているような場所、たとえば無人島なども各地にたくさん存在します
そういう場所での「獲ってよし/獲っちゃだめ」は、現実的にはそこを縄張りにしている漁師たちが決めているのですが、とはいえ自然に存在するものに対してそうしたルールを当てはめようとする考え方自体が、本質的に不思議だな、いつどのようにして発生したのかな、と考える次第なのです
こうした「獲ってよし/獲っちゃだめ」の境目は、時代によっても変化します
山に行くとそのことがよくわかります
たとえば、昔は他人の山でタケノコを掘るとタケノコ泥棒と罵られたものですが、今はむしろタケノコを採ってくれてありがたいと言われます
繁殖力旺盛な竹がそこいら中に生えて他の植物を蹴散らし、山を荒らすことが問題になっているからです
一方、松茸はといえば相変わらず、採る権利がお金で売買されるような状況
タケノコと松茸という、山を代表する「うまいもの」二つにして、こうまで対応が異なるわけです
山で誰が採っても怒られないのはアケビくらいのもの
そうなるといよいよ
「獲ってよし/獲っちゃだめ」の境目とは何なのか
と
私は子どもの頃から海に潜っていろいろな魚を獲ったり、川に入って鮎を獲ったりしてきましたし、栗の実もタニシも好きなように採ってきました
その経験からすると、たとえ地主のいる山であっても「自然に生えているものを人が採るのはだめ、でもクマが食べるのはオーケー」というのは、いったいどういうことなのだろうと思います
その根本には、おそらく、山でも海でも川でも「獲る(採る)人の数が増えた」ということがあるのでしょう
交通ルールと同じです
都内にクルマが10台しかなければ、まずぶつかりませんから交通ルールは不要です
でもクルマが何十万台も存在したら、交通ルールなしではとてもやっていけません
もっとも現実的には、漁師たちがいかにルールと縄張りにうるさくても、私たちが趣味やレジャーで釣りをする分には問題はほとんど生じません
ただ個人的な経験では「魚が傷つくから引っ掛け針はやめてくれ」と、仕掛けに対して漁師から注文をつけられたことはあります。
また、籠を沈めて伊勢海老やカニを獲ることはやめてくれと言われることは多いと思います。
当の漁師たちも籠を沈めて獲るわけですが、これについては例の「投資」が関係しているでしょうから、まあ仕方がない
でも、釣りの仕掛け程度のことに注文をつけるのはどうだろうと、個人的には思わないでもありません
そんなことをつらつらと考えながらも、先日釣った鮎は(小さい理由こそわからないものの)「うるか」を作るためにすでに塩漬けにしました
5年、10年と時が経つほどにうまくなる「うるか」ですが、おそらく我慢できなくなってそろそろ箸をつけ始めることでしょう
次回はいつものうまいもの話に戻りましょう
お楽しみに