さて、五仏礼拝である。

五明王と五菩薩は修行の前段階ですから、まだ如来は虚空から飛来しない。であるがついに五如来を唱えることで宇宙が我が身体にやってくるのである。まあこのあたりの記述は眉唾物だから話半分に聞いてほしい。というのも東寺に通って毎回3時間二日間を繰り返してやってきた悟りとは自分が宇宙になることである。そんなことはあり得ないし、何よりお釈迦様の悟りはそんなチンプンカンなものではない。彼はしっかりと自身の矢を抜いて静寂に陥ったのである。そして再びその静寂から立ち上がったというより、静寂から有情の苦をみて奮起したのである。その姿が不動明王に他ならない。静寂から再起動してサンガを復興した。

そうするといま正に五仏を唱えることはその五相成身観そのものである。五相成身観というのは釈迦が苦行からスジャータで目覚めて一挙に悟りを得たその一連の心的変化を指す。

 

先ず、阿しゅく如来。om aksu bhya huum a-ksa-bhayaかな。不動の心を示す。煩悩が消え失せて静寂な心である。阿しゅくは右手を伏せて膝と大地を伏して強欲をねじ伏せた姿である。あるいはこの世のすべての悪を制御した姿である。簡単に言えば見えない矢を退治した状態である。しかしこの世の苦を実感できなければ防ぎようが無い。この世をひしひしと感じるが故に制御が可能なのだ。この意味で煩悩即菩提である。悪即善である。悪の苦を感じるから善への希求が甚だしいのである。そうすると阿しゅく如来の右手は震えている筈だ。特に未熟者の私などは悪欲を抑えきれなくて手が震える。というより上と下とどちらが善でどちらが悪なのがわからなくて振動する。しかしとりあえずom akso bhya huumである。平常心よ来たれかし

 

もしもこの鏡のような大円鏡智恵に成功したら次は宝生如来である。虚空蔵菩薩と同体である。

namo aakaasa garbhaaya om aalokya maali bhaali svaaha虚空よ、最上宝玉を示したまえ。

私の訳は、私を無意味にして生み出したこの空隙よ、意味を示したまえ

要するに、どうして生まれたのか分からないが、夜空を観るにつけその疑問はつのるぞな、その意味はなんぞ

 

答えが在るはずもないのであるが、とにかく問い続ける。

 

そして阿弥陀如来、

om amrta tejah hara huum甘露の法味よ、一切衆生を潤したまえ

いやいや、真実を我に見せたまえ、不死の光よ、

 

そして薬師如来または成所作智恵如来。

om huru huru candaari maatagi svaahaaこの世の暴力の苦よ人身売買の苦よなくなれ

である。ここにマントラ一貫している。

 

そして大日如来  om vajra dhato vamである。満足よ、平安よ、慈悲よ、磐石たれ

最古の経典スッタニパータ四章15経では、一切所平等平安である。一切所平等平安よ確固たれ

一切所平等平安とはあらゆるところにあらゆるひとと幸福である心境である

 

さらに、曼荼羅十五仏全体を見渡して、

大大日如来を唱える。

om mahaa vajra  dhaatu vam

あらゆる衆生よ、一切所平等平安たれ