clubbiのブログ
  • 31Oct
    • 「日本学術会議会員任命拒否についてイタリア学会による声明」 私も石手サマヤ学会声明を書きたい

      「日本学術会議会員任命拒否についてイタリア学会による声明」日本学術会議が推薦した第25期会員候補者105名のうち、6名が菅総理によって任命されなかったことについて、明確な理由説明はなく、説明の要求を斥けることは学問の自由の理念に反すると同時に、民主主義に敵対するものであり、これに断固として異議を唱えます。《説明しないこと》こそが民主主義に反する権力の行使(国民に対する暴力)であり、主権者である国民に説明責任を果たすことが民主主義の基本だからです。情報公開の制度は古代ローマの時代イタリアの地で芽生えました。イタリア学会としてこれを看過することはできません。必ず説明責任が果たされることをイタリア学会の総意として要望致します。令和2年10月17日イタリア学会会長藤谷道夫(慶應義塾大学教授)理由イタリア学会は「日本におけるイタリア学の発展と普及に寄与することを目的としている。」(イタリア学会会則第3条)イタリア学を通じて学び得た知見を社会活動に適用することは、学会の目的に適う実践的行為と判断し、今回の声明を発した理由を簡単に説明したい。菅首相は「(学術会議の会員は)広い視野を持ち、バランスの取れた行動を行ない、国の予算を投じる機関として国民に理解されるべき存在であるべき」だと述べた。これをテキスト解釈にかけると「国の税金を使っている以上、国家公務員の一員として、政権を批判してはならない」という意味になる。ここには2つの大きな誤謬が隠されている。学問は国家に従属する《しもべ》でなければならないという誤った学問観であり、国家からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならないという誤った公民観である。学問は、国家や時の権力を超越した真理の探求であり、人類に資するものである。与党に資するものだけを学問研究とみなすことは大きな誤りである。学問研究によって得られる利益は人類全体に寄与するものでなければならず、時の政権のためのものではない。判りやすい例を挙げれば、日本は西洋から数学や物理・化学を始め、あらゆる分野で多大な恩恵を無償で受けた。万有引力定数や相対性理論を発見したのは日本人ではない。その恩恵と利益を受けながら、その使用料は払っていない。なぜなら学問成果は全人類の共通善として無償で開放されているからである。日本国には受けた恩恵を人類に返すべき義務があることは言うまでもない。「国からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならない」というのは手前勝手な考え方である。公務員は政権の《しもべ》ではないからである。公務員は国民全員の利益のために働く。政権が間違った判断をすれば、それを国民のために批判することは、むしろ公務員の義務である。古代の中国では臣下が君主に行ないを改めるよう諫言することは褒むべき行為とされた。翻ってイタリアの地、古代ローマの時代には、時の政権の勝手な振る舞いから国民を守るための公的機関である護民官が設置されていた。現代の公務員に匹敵する護民官は、時の権力を批判・牽制するために作られた驚くべき官職である。次に、菅首相は憲法23条が保障している「学問の自由」の意味を理解していない。「学問の自由の保障とは、学者が学問的良心に従って行なった言動の評価は、まずは学者どうしの討論に委ね、最終的には歴史の判断に委ねるべきであり、間違っても《時の権力者》が介入すべきではない、ということである。」(小林節慶應義塾大学法学部名誉教授)権力が学問世界に介入する事例は西洋史に無数に見出される。1632年ガリレオ・ガリレイが『天文対話』を完成させた時、ローマ教会は検閲を行ない、教皇ウルバーヌス8世とイエズス会士はこれに激怒し、同書を禁書にした。ガリレオはローマの異端審問所で証言するよう出廷を命じられ、翌年、6ヶ月にわたる裁判を受けさせられた。ガリレオは自分の誤りを認めさせられ、異端審問官の前で研究を放棄するよう宣誓させられた。そしてフィレンツェ近郊で残りの9年の生涯を軟禁状態で過ごすことになる。教会の決定に疑義を挟むことなどあってはならず、時の権力に反する主張は時の権力の判断によって封殺された。「今回、菅首相は、特定の学者の言動について《広い視野を持っているか》《バランスの取れた行動であるか》について自分の権限で判断したと告白し、その結果、《国の予算を投じる機関(の構成員)として国民に理解される存在ではない》と認めたのである。問題は、仮に菅氏が高い実績のある学者であったとしても、同時に、《首相》という権力者の地位にある間は、そのような判断を下す《資格》が憲法により禁じられているという自覚がないことなのである。にもかかわらず、高い実績の学者たちが全国から会議に集まるために1人につき月2万円余の交通費を用意する程度のことを逆手にとって学術会議に介入しようとするとは、《選挙に勝った者には何でも従え》という、政治権力者の思い上がり以外の何ものでもない。」(小林節名誉教授)私たちが最も問題とするのは、《説明がない》ことである。憲法63条は「答弁または説明のため出席を求められた時は、国会に出席しなければならない」と義務付けている。この趣旨について政府は「首相らには答弁し、説明する義務がある」(1975年の内閣法制局長官)と見解を示している。しかし、菅首相は官房長官時代から記者会見で「指摘はまったくあたらない」と木で鼻を括った答弁を繰り返して憲法を無視してきた。世界で初めて情報公開制度を始めたのはイタリアである。「執政官に就任して(前59年)、まずカエサルが決めたことは、元老院議事録と国民日報を編集し、公開する制度であった。」(スエートーニウス『ローマ皇帝伝』第1巻「カエサル」20)これが民主主義への第1歩である。それまで国民は元老院でどんな議論を、誰がしているか知る術もなかった。議員が私利私欲で談合を行なっても、知る由もなかったが、議事録が速記され、清書されて、国民に公開されるようになったおかげで、貴族の権力は大いに削がれた。隠れての不正ができなくなったからである。一方、その時代から2000年以上経った今の日本では、安倍政権下で情報は秘匿され、文書は改竄・捏造、削除され続けてきた。確かに、日本では民草に説明をするなどという伝統も習慣もなかった。江戸城で開かれる老中会義の内容が知らされることもなければ、人事異動のプロセスも民草には窺い知ることもできなかった。おそらく安倍・菅首相が目指す世界はこうした江戸時代のものなのであろう。人事で恫喝して従わせる手法は、一種の《暴力》とみなされる。紀元前5世紀のアイスキュロスの作品『縛られたプロメーテウス』には権力の何たるかが活写されている。この劇は二人の登場人物がプロメーテウスを連行する場面から始まる。プロメーテウスは絶対君主であるゼウスの意向に逆らって、天上の火を盗み、人類に与えたために、暴君ゼウスから罰を受けて、スキュティアーの岩壁に磔にされる。この時、彼を連行する2人の登場人物の名前に作者の意図が巧みに織り込まれている。二人はKra/toj(クラトス)とBi/a(ビアー)という名だが、ビアーの方は劇中で一言も言葉を発しない。ギリシャ語でクラトスは「権力」を、ビアーは「暴力」を意味する。無言の暴力を用いて他者を従わせるのが権力であるという寓意である。ギリシャ語のビアーやイタリア語のviolenzaは単に武力による物理的な暴力だけではなく、圧力や強制を意味する。ビアーのように《説明しない》ことが権力(クラトス)なのである。同じく、カフカの『審判』では主人公ヨーゼフ・Kは、ある日見知らぬ2人の男の訪問を受け、何の理由も告げられず、逮捕される(この2人の男はまさに「クラトス」と「ビアー」を暗示している)。その後、何の説明もなしに、有罪とされ、「犬のように」処刑される。この小説でも《説明しない》ことが権力であるとして描かれているが、これが現実になったのが、ソヴィエトである。ソルジェニーツィンの『収容所群島』にはまさに何の《説明もなしに》逮捕され、強制収容所に連行される日常が記録されている。逮捕するのは決まって深夜である。深夜に訪れることで逮捕者を恐怖させる効果を狙ってのことだが、また同時に、近隣住民が翌朝、隣人が忽然といなくなったことを知って恐懼するよう仕向けるためでもある。これが不安をかき立て、恐怖を蔓延させる。いつ自分が逮捕されるか人々は戦々恐々とし怯えるようになる。これによって国民は心理的に権力によって完全に支配される。つまり、《説明しない》ことこそが権力の行使であり、国民を無力化させる手法なのである。こうして国民は恐怖と不安から権力に従うようになる。なかには権力に忖度し、取り入る者が出て来る。こうした事例からも民主主義がいかに「説明すること」にかかっているかが判る。説明と情報公開が民主主義を支える命であり、それを破壊する手段は《説明しないこと》、《情報を秘匿する》ことなのである。たかが6人が任命されなかっただけで、ガリレオを持ち出すのは大げさであり、学者はそうした政治的な喧噪から離れて研究をしていれば、好いではないかと思う人がいるかもしれない。ましてや一部の学者の話であり、自分たちには何の関係もないと思っているかも知れない。しかし、問題の本質は、時の権力が「何が正しく、何が間違っているかを決めている」点において、ガリレオ裁判と変わりない。科学分野の基礎研究の予算は削られ続ける一方で、軍事研究には潤沢な傾斜配分がなされる今の日本にあって、また軍事研究に手を染めない学術会議の方針を苦々しく思う自民党政権においては、杞憂で終わらないことを心得ておく必要がある。実際、すでに文科省は今月17日に行われる中曽根元首相の内閣・自民党合同葬義において弔旗を掲揚し、葬儀中に黙禱するよう、国立大学や都道府県教育委員会、日本私立学校振興・共済事業団、公立学校共済組合などに通知を送っている。公金は自民党のためのものではなく、国民のためのものである。国民全体の奉仕者である公務員を、自民党のための奉仕者に変えようとする暴挙は許されない。かつて次のように臍をかんだマルティン・ニーメラーの轍を踏まないためである。(文責:藤谷道夫)ナチスが最初、共産主義者を攻撃した時、私は声を上げなかった。なぜなら私は共産主義者ではなかったから。社会民主主義者が牢獄に入れられた時、私は声を上げなかった。なぜなら私は社会民主主義者ではなかったから。彼らが労働組合員を攻撃した時、私は声を上げなかった。なぜなら私は労働組合員ではなかったから。ユダヤ人が連れ去られた時、私は声を上げなかった。なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。そして彼らが私を攻撃した時、私のために声を上げてくれる者は誰一人残っていなかった。通常の娯楽に加えて、(古代)ローマ人の労苦に満ちた厳しい生活を陽気なものにしてくれるものに、凱旋式があった。(中略)民衆は大喜びで拍手喝采していた。だが、部下の兵士たちから将軍に向けて罵詈雑言を浴びせる習わしがあった。将軍の弱みや欠点、愚行の数々を公衆の面前であげつらうのである。将軍が高慢にものぼせ上って、自分を無誤謬の神(絶対に正しい偉い人間)だと思い込んだりしないようにするためである。例えば、カエサルには、部下たちがこう叫び立てていた。「禿げ頭の大将よ、他人の奥さんたちを物色してんじゃねぇぞ!あんたは商売女(淫売女たちで)で我慢してりゃいいんだ!」1現代の独裁者たちに対しても同じように言うことができたならば、きっと民主主義にとって怖いものは何もなくなるだろう。(Indro Montanelli, Storia di Roma,Rizzoli, Milano, 1969, pp. 141-142)「犬儒派(キュニコス派)のディオゲネース(前400/4頃-325/3頃)は、世の中で最も素晴らしいものは何かと訊かれたとき、《何でも言えることだ(言論の自由parrhsi/aパッレーシア)》と答えた。」~ディオゲネース・ラーエルティオス『ギリシャ哲学者列伝』69~

  • 29Oct
    • さすがNHKだ。こんなおそまつくんの画像

      さすがNHKだ。こんなおそまつくん

      また、百地氏は、「学問の自由を侵し、萎縮を招く」といった批判が野党などから出ていることについて、「私から言わせるとナンセンスだ。学術会議の会員になれなかったからと言って、学問の自由は侵害されないのではないか」と述べました。みなさんがどうして東大や京大に行きたがるかというと、まず勉強できる環境があるし、先輩の優れた先生がいるからである。金もない、学校へも行けない、生活もできないというのでは学問はできないのだ。我が師の空海さんも綜芸種智院をつくり其処は全寮制で衣食と学資を支給して一般教養と仏教を学問していた。彼は「喰わなければやっていけないのだ」と喝破している。大学も特に人文系は予算も減らされ、果ては二大学と東北ぐらいしか残余しないだろう。その東大学長もお上の意向ではないかという疑惑が報じられていた。勉強しても学問する機会を失うという事態が来つつある。既に裕福な家庭でないと都心部の学校には行けないというのは常識になりつつあるという上にである。政府はもっともっとひもつきでない自由裁量の学問領域を国民に確保する義務がある。第二は、三権分立と同様に学問の独立が必要だ。百地君にうだうだ言われなくとも既に今回の事件で皆萎縮しているよ。それ以上に、分立の確保は重大である。このままいくと全て総理が一人で決める状態になる。いや既になっているだろう。説明責任もない。誰が決めたのかも分からない。選考された名前を見ていないのに俯瞰だという。めちゃめちゃ。ぐちゃぐちゃだ。分立が大事だ。英語は明解だ。independantだっけ。depend onをしていないわけだ。何かに頼る。何かに怯えることがないこと。どうみても今回のはdepend on Sugaだろっ。分立がなくなって一元化すると、それはたぶんファシズムって言うんだ。暴君への道だ。それぐらい百も承知でしょ。それよりこんなの報道するNHKとかいう団体ってなんだ。御用学者か。茶坊主か。おそらくこんな感じで、こわいよこわいよ中国。こわいよこわいよもっとこわいよイラクで何十万人殺した、今も殺し続ける米国。もっと鉄砲作って平和主義者を追放して何時でもやれるようにしないと大変だ。確かに国力を保つことは大事だろう。でもディペンドオンワンマンでは強いチームはできない。コンクリートからエンジニアへ。エンジニアから科学者へ。科学者から人文科学者へ。坊さんは昼寝する。昼寝していれば戦争にはならないし、学問に素人が口をはさむこともなくなる。日本学術会議は戦争推進する学問は止めましょうといったのが悪かったのですね。昼寝せずに核兵器やレーダーを欧米より先に作れば良かったのだ。次は、6ジーだ。なんで道ばっかりつくってんの。なんで格差是正に金つぎこまんの。日本学術会議は十億円もらってその金で言いたい放題するから有意義なのであって、政府の言いなりになるなら、たったの十億円(裏の誰も通らん道に五億円)でも足長育英会に寄付したらいい。でもそうしたら全て政府の機関になるよ。奨学金も減額、学費も値上げ、寮も縮小、教育の機会均等や人格形成としての一般教養補償などはどうなる。その理由は一人が決める政治へと邁進しているからだ。確かにそうでないと戦争はできないもんね。

  • 27Oct
    • 衛門三郎の再来が一遍上人である(予陽盛衰記)という意味の画像

      衛門三郎の再来が一遍上人である(予陽盛衰記)という意味

       重見右門著の『予陽盛衰記』(元文四年刊)第七章に「遊行上人由来の事」がある。石手寺縁起で有名な浮穴郡荏原村の八塚右衛門三郎の転生がすなわち一遍上人であるとした点に特色がある。別府七郎左衛門通広の子は幼名を徳寿丸と言い、後に別府弥七郎通秀と称した。「通秀は前生右衛門三郎が事跡を詳しく尋ねて」ひたすら菩提心を起こし、久米郡に一つの伽藍を建立し、石手寺と号した。通秀は発心して智真坊と法名をつけて諸国行脚に旅立った。これが一遍上人である。また代々の宗主は諸国を遊行するから遊行上人とも陀阿上人とも言うが、「願満ちて、後住に譲り、閑居したる人藤沢に住すなり。されども、諸国行脚の内は滞居の寺庵あり。予州には殊に開基の地なればとて、道後に法厳寺と号して廻国の砌この寺にいますなり。」とある。一遍上人が河野家ゆかりの三島明神へ参詣されたとき、歌一首詠進したところ、「風も吹かざるに幣帛やや暫く動」いた。「六時不断の隙なき中にも、三島の事をば深く信仰ありしとなり」とある。『予陽河野家譜』(慶長年間以後成立)巻二にも通信の三男通広(河野七郎)は風早郡別府に住んだので別府を氏とし、息男は七人いたが、二男が通秀で三男は出家して聖戒上人と言い、四男も出家して一遍上人と号したとある。割注して「童名聖衆丸、出家而号随縁、又智真房時宗開祖也」とある。この記述から想像するのは荏原に衛門三郎とい者が居て、真魚(空海さまの幼名)が二十歳の時に流浪して来る。彼が言うには酷く汚くやせ細った風体だったので「町に入ると瓦礫を投げられた」と述懐する。正にホームレス襲撃だ。彼は多度津という名港の豪族の三男であり、彼が河野家の開拓地域に開拓する三郎を知っていてか、尋ねて匿うように懇願するが、三郎は追い返すか、表向き追い返して匿う。匿うというのはもしも空海が名門三男なら匿えば逃亡者を逃がした罪となる。追い返していたなら彼は空海を知らなかったのだから無縁かしかし古代の四国であり一方は名だたる港の御曹司。方や 国衙 から数里に位置する将来の領主の家系だ。お互いが知らないはずは無いとすると、彼は何らかの援助をしたと考えるのが妥当だろう。追っ払ったのではなく匿ったのだ。ならば当然、生れ変わって領主となり、空海の命の恩人なのだから一遍上人と同一視されても何の不思議も無い。

  • 25Oct
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      将来私たちは窒息するだろう。行き絶え絶えに生きる。何のために。

      天下分け目とは良く言ったものだ。私が大好きなスピノザのもう一つの側面を上野修さんが語った。それは群衆の力能。要するに大嫌いな西部邁が 『大衆への反逆』で明確にしたインテリの仄めかしと大衆のその日暮らしだ。要は二人とも言いたいのは政治とは大衆が動かなければどうしようもないということだ。ほんの過半数を取れない。小選挙区制では三割を取ったら勝だ。その三割を取れないのは大衆の悪戯。群集心理。マスの反逆。反逆とはまっとうでないことを言っている。自分こそが正しいのにひとびとが賛美しないという落胆そのものだ。私たちは否、私は大衆や群衆に媚びる必要はない。どうして大衆の為にやっているのに其れに媚びるのか。躊躇するのか。ためらうか。怯む。贈る。大衆が言論の統制を欲している。なぜか。自分が言えないのだからあなたも言うなと。そうだ。私は、大きな寺に居るから未だ言える。看板も出す。だが大衆はどうだ。既に、絶たれている。絶命。表現の自由はとんでもない勢いで消滅しつつある。表現の自由は聴衆を必須とする。聴衆は居るのか。この声は届いているのか。だから、嫉妬故に彼等は自分の敵に塩を贈るのだ。しかしである我が闘争マインキャンプ。どうしてそうなったのか自分の運命は自分で決めるしかない。そうしない人々は虐殺される。生き延びるためかそれとも死ぬためか生死空海はこの世を無常とといい生死といった。生死とは苦と楽だ。生き延びるために窒息するのも良いだろう。しかし私はそれを好まない。自分のためか。他人のためか。時々刻々殺される人々が居る。他国で、そしてこの国で。魂の解放か。あるいはつまらない生をつづける。

  • 23Oct
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      プライドなんてあるのかproud 誇らしげにすること誇りとか誉れ

      経典には一切空と書かれる。僕は一切食うの誤記かと訝る。さて、今日のテーマはプライド。「おまえはプライドが無いのか」というセリフ。結構怪しい。プラウドは動詞だから目的語が必須だ。ここが英語の利点だ。日本語は動詞が一人歩きするが英語はしない。自動詞は一人歩きだが他動詞は目的語を伴って始めて成人する。おそらくプラウドは目的語を二つ持つ。ひとつは誰に対して見せびらかすのか。そして何を見せるのかだ。ということは先ず、世間体や他人を気にしない人はプラウドできっこないまた、見せびらかす物がない人はできないで、仏教は空だから、他人も居なければ、所有もないから、プラウドなんてないということは、恥の文化はそもそも存在しなかったし、世間体もないし、自分に誇ったり、自分を褒めたりする必要もない。

  • 22Oct
    • 秋の大祭、福徳灌頂祭はじまるの画像

      秋の大祭、福徳灌頂祭はじまる

      福徳灌頂祭 10月21日~11月19日 午前九時と午後三時半十五仏大曼荼羅で弘法大師伝来の発心、五鈷加持、仏智慧加持、呪文授与、福徳念珠授与を行います。参加布施200円です但し木曜日と雨天は要問い合わせ

  • 20Oct
    • 上野修スピノザで、神は自然のなかに全て内在するのみならず群衆の力能の達観

      https://www.youtube.com/watch?v=IwDwN4ztUoA上野修教授最終講義「大いなる逆説スピノザ」(1/3)上野修教授最終講義「大いなる逆説スピノザ」 日時: 2017年 3月17日(金)14時30分〜16時30分 場所: 大阪大学文学部本館2階大会議室 大阪大学大学院文学研究科 哲学哲学史/現代思想文化学 〒560-8532 豊中市待兼山町1-5 Tel.: 06-6850-5095/5096 E-mail: tet...www.youtube.com東大大学生の推薦で日本学術会議問題の一つの解決策としてこれを見た。西洋哲学の中では唯一興味を惹いたのがスピノザであったから何かしら共鳴する糸を感じるのだ。それはさておき、最初の印象は古代哲学をというより古代心象を引き摩るなんとなく砂ぼこりと粘土を感じる感覚がある。この世の全てか神であり神は外部にはなく自然の中に完結しているという語りだ。正に清濁善悪運不運全てを肯定しつつ否定するのだから大大日如来そのものだ。禅宗はことさらに思考のトリックを消そうと必死だが、そんな愚弄は要らない。ここでは古代の直感とその古代の次に来る殺戮と対立の時代への恐怖の予感が思考のトリックを必要とする時代を予感してますます古代の意識を強化しているのだ。それはともかくもう一つのトピックは特設会場に「群衆の力能」という舞台を用意してる。そのように先生は教えてくださった。それは私から見ると外部にある鋼鉄のような手ごわさだ。いくら人々の良心に訴えたところで、大衆は時の動きを読んで自分を制御して生き残るというのが群衆の風見鶏的手腕なのだ。そうしなければ生きていけない。バルト三国は常にロシアとプロシアの旗を隠し持っていたという。ロシアに占領されればロシアの旗を軒先に出す。プロイセンが来ればプロシアの旗をはためかせる。そのようにして生き延びたのだ。さて、もう一つスピノザの魅力がある。重複するが、それはわれらの外部に何かを認めない志向だ。言い換えればすべての責任を自分が負うということだ。全ての罪を自分が負うのだ。なぜならこの世の苦しみをどうしようもないからだ。どうにかしたい。そう焦燥すると全部の罪をかぶるしかない。全ての責任を負うのだ。だから外部がない。がいぶというより責任を転嫁する何ものもないのだ。あるのは冷徹な歴史の繰り返しと可能性を探る自分が生きているということだけなのだ。

  • 16Oct
    • 言葉から見る仏教

      言葉から見る仏教衆生、有情、凡夫 この世にはさまざまな生き物が居ます。単細胞から多細胞、魚類、鳥類、脊椎動物、猿、人間?。そのすべてを衆生と言います。仏教では六道といい地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天人の六つの生き方が有るとします。生き方といっても、どちらかというと心の在り方を言います。 石手寺に皆一緒十五仏が出来ました。それは心を五つずつの仏で表しています。左が闘争の世界。右が融和の世界。中央が悟りの世界です。衆生とは覚る以前の生き方ですから、闘争世界に住む生き物ということになります。お釈迦様も空海お大師さんも覚る前は衆生だったわけです。これを凡夫とも言います。凡庸な生き方という意味。また有情とも言います。情を持つ生き物です。自分の痛みを持つ生き物。人の痛みを知り始めるとだんだんと仏様への道に乗ることになります。 少々いやな質問ですが、衛門三郎の話を知っていますか。行き倒れしそうな薄汚れた旅人が彼の家を訪れて一夜の宿を請いますが、衛門三郎は泊めることなく追い払います。そして自業自得でしょうか、彼は家出して最期は行き倒れて死にます。 ここで質問。 あなたの家に汚いホームレスが「凍えそうです。軒先で良いから一晩泊めてください」と尋ねてきたらどうするでしょうか。先般、渋谷駅前を歩きましたが、段ボールで何人も寝ていました。助ける人は居ないのでしょうか。六道 六道は生き方とか心の在り方です。輪廻を信じる人は今は少ないですが、かつては自業自得とか業思想といってこの国に受け入れられていました。輪廻の話をしますと、衛門三郎の話も自業自得の話になっています。そして四国遍路では「おせったい」が美徳ですが、人々が衛門三郎のようにはならずに人々を家や家の軒先や村の辻堂に泊めたり、食事を給付して一週間程度養っていた理由は何でしょう。 あるおばあさんは私にこう言いました。「可哀想や思うて泊めました。でも一晩中見張っていました。送り出すときには『あんたはお大師さんやからね』と言いました」と。そしてかつて行き倒れの遍路に冷たくすると来世でその人は行き倒れの人生を送ると言われたものです。「かわいそうや」「修行僧で空海様や」「冷たくしたら今度は私がそうなる」と恐れられたのです。 自業自得とは悪事をしたら悪所に行くという思想です。六道は「地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天人」。地獄とは塗炭の苦しみ。餓鬼とは蔵は満ち足りても求め続ける貪欲。畜生とは人の痛みを知らないいじめっ子。阿修羅は恨みで闘争を続ける嫉妬と恨みと強欲の権化。天人とは善行のご褒美として人間より長井寿命を満足して生きる世界。人間とは善と悪の間で心を揺らす生き物。 これらの表現は現実と心の内面の二方面を表しています。例えばインパールやガダルカナルやヒロシマ原爆や慰安婦などの人身売買などの苦しみは、生き地獄としての「地獄」です。それとともに敵を殺した人や戦地に戦友を置いて自分だけ生き残ったという戦友は帰還後「そのことを一日も忘れたことはない」と言います。これは心の苦しみです。肉体の苦しみと精神の苦しみの両面が地獄という一つの表現に篭められています。そしてそれは空想ではなく現実なのです。 また二つというのは、衛門三郎ものがたりにおいて、追っ払われた汚い僧侶は凍えて飢えてひょっとすると地獄の苦しみに落ちます。一方で衛門三郎は寂しい餓鬼の世界に居ます。他人のことを思いやることが出来ずつまらない小心者の世界に齷齪します。そしてひょっとして旅人の餓死か凍死を耳にするならば罪の意識によって餓鬼から地獄へと堕ちます。この二つの世界が同時進行することが苦しみの原因でもあります。 同様に餓鬼はどうか。餓鬼とは人のものを奪い人を虐げて生きる動物です。奪い、気に入らない人を排除し、相手の痛みを理解せずに快楽に酔いしれて驕り高ぶることです。餓鬼の表現にはですから、さもしい心とその態度の両方が記されています。畜生は無反省な生き方。阿修羅は闘争。天人は快楽に酔いしれて先を見ないこと。 このように考えてくると、私たちは生きているこの今の瞬間も、貪欲を起こしては他人を損なったりしつつ、同時に餓鬼の心に住んでいるということです。奪うという行為をするなら、相手には地獄が起こり、私には餓鬼の世界が蔓延しているということです。三毒、煩悩 餓鬼とか畜生とか阿修羅の生きざまを垣間見たわけですが、仏教は悪業を説きます。悪業とは自分や他人を損ない、そして理想郷である涅槃や覚りに行くことを妨げる障壁です。煩悩とは煩い悩むと書きますが、自分の煩いで他人や自分を悩ますということです。その煩悩の根源にあるのが三毒だとされます。 三毒とは、貪欲、瞋恚、無知です。強欲と非道と無反省です。ですから一般には仏教は三毒を無くすことと説かれます。たとえば欲しがりません。怒りません。覚りを勉強しますということになります。しかしそれを突き詰めると、希望を持たない。何事にも怒らず泣き寝入りする。自分が馬鹿であることを恥じる。そんな仏教になってしまう恐れがあります。 私はそれを泣き寝入りの宗教。イソップの酸っぱい葡萄の宗教。ことなかれ主義の宗教。生きる力を喪失する後ろ向きの宗教と呼びます。そしてある時わたしは一つの古い古いお釈迦様の経典に出会います。そのお経では三毒は貪欲、瞋恚、無知とは多少異なります。 三毒は三悪欲と表現され、奪う、排除する、傲るなのです。どうでしょう。私たちの一日は何でしょう。空気を吸う。食事を取る。嗜好品を得る。給料を得る。仕事を得る。配偶者を得る。得ることばかりです。そして老廃物や便を排出する。二酸化炭素を排出する。生ゴミや粗大ゴミやプラゴミを排出する。政敵を排除する。嫌いなものや人間を排除する。古層の経典には人間は取り込んで廃棄する。ものを手に入れる生き物だ。と記されます。読んで驚嘆し落胆する表現ですが、よくよく省察してみると当たっています。もうひとつお釈迦様や空海様が書いていることで驚くのは「人間は食べないといけない。生きていけない」という表現です。人間は基本的に取る生き物なのです。取るのはものだけではありません。心もそうです。認めるという認識もそうです。見て留めるでしょうか。見初める。見染めるかもしれません。見て取る。見て染まる。心は見たものを心に得るのです。心に獲得するのです。心が欲によって見たものを心にしまう。貯蔵する。それをカーマと言います。英語のラブは愛情の意味であると同時に愛する人を意味します。欲求と欲求されたものという二つのものは実は不可分です。インド語で英語のラブに似た言葉がカーマです。カーマが欲してカーマを形成するのです。カーマは自分の欲求であり、出会った好ましいものであり、心に作り上げたイメージです。 話を戻すと、三毒とは釈迦にとっては奪う、排除する、傲慢の三つです。他人のものを奪い、それを邪魔する人を排除したり殺し、そして自分を正当化して保身に浸るということです。この古い古い経典が正しいとすると、三毒とはそのまま戒律と同じことになります。戒律とは奪わない、殺さない、慢心を抱かないが基本です。お釈迦様が嫌ったのはこの三悪欲に違いありません。ですから仏教が悪として睨んだのは三毒でありその内実は奪う排除する慢心するなのです。 この三悪欲を退治すればそのまま覚りと涅槃がやって来るに違いありません。国家主義と格差の時代にはまことに正鵠を射ていると思います。涅槃、仏教の理想郷 仏教の目的はよく「覚り」といわれますがそもそもは涅槃です。ニルヴァーナです。あらゆる欲望が静まった状態です。カーマを理解した人にはカーマがなくなった状態と表現しましょうか。 お守り売り場に居ますと、向うからお客さんが来ます。「子授けを」と言われますと「はい、これです」でおしまいですね。中にはお土産を探して来ます。その人は、舐めるように陳列台を見ます。端から端まで見るわけです。先の子授け物色の人は他のものには全く目もくれずに去っていきます。この違いは何でしょう。モチベーションですね。動機です。やる気です。五仏でいうと虚空蔵ですね。虚空蔵は空の表現であり、有の表現です。空とは何も欲しがらないという意味であり、有とはこれだけが欲しいという意味です。子授けを求める心は有であり、何かないかなというのはある意味で空です。 求めるものが無いときは空であり、何も見えないがあらゆるものを平等に見渡します。逆に一つのものを必死で求めているときは有であり、そのもの以外は見えません。 涅槃とは何も求めない心境ですね。カーマがなくなった心境です。極端な場合には、食事も目にくれませんから朝昼晩が過ぎても食べません。鬱の状態ではそうなりますね。途方に暮れて食事も取らない静止状態です。楽しくない静止。楽しい静止が涅槃。私たちはそのようにしか想像できませんが、古代の僧侶たちが考えたのは別です。そのようにしてカーマつまり欲望から解放されると、神になることが出来ると考えたのです。ブラフマンです。欲望を捨てることで帰って万能の力を得ると考えたのです。それはヤージュニャバルキアという哲学者の思想です。 お釈迦様はそうではなかった。奪う排除する高慢に酔うという三悪欲と三悪行を止めれば即座に涅槃があると考えたのです。ところが、後の学徒はお釈迦様の境地はもっと崇高で永遠で高邁だとしたいが故に、つまり欲望故にヤージュニャバルキアに擦り寄ったに違いありません。 仏教の理想郷は涅槃ですが、涅槃には四種類が表現されるようになります。一つは自性清淨涅槃。二は有餘依涅槃。三は無餘依涅槃。四は無住涅槃。です。要するに種としての涅槃。煩悩と暮らす涅槃。あの世の涅槃。どこでも行ける涅槃です。これはお釈迦様の一生を示しています。衆生時代のこと。修行時代のこと。死後のこと。そしてそんなこととは別のどこでものことです。何故こんなことを言うかというと生きながらにして六道を行き来しているからです。もう一つの理由は、他人とともに生きるわけです。特にお釈迦様は人助けして生きます。いろいろな人の悩みや悪行に同行するわけです。すると涅槃は三毒になり煩悩になり衛門三郎になり弘法大師になります。 涅槃を得たら其れで良いという考えと、そうではなく一切衆生といっしょに生きるのが涅槃だという考えです。発心 私は仏教を学び始めて最初に疑問に思ったのは動機でした。何故、お釈迦様や空海様はぶっ居を仏教をやろうとしたのか。何故出家したのか。なぜたくさんの修行をしたのか。 例えば、東大に行きたいという人にはその動機があります。偉くなりたい。安定した人生。褒められる人生。優れた教授陣。親の期待。優劣の克服。などなど。 ではお釈迦様はどうか。 それはあるお経に書いてありました。俗に言う四門出遊ではありません。死人と病人と老いぼれと赤子を見ていずれは私も悲嘆すると嘆いたのではありません。そんなのお釈迦様でなくとも誰でも思う衆生の凡夫な心境です。お釈迦様は一族を守るために戦争に行きて、武器を手にします。しかし殺せない。人間は人間を殺せないのです。それは帰還兵の証言に明らかです。相手にも家族が居る。敵も自分と同じ苦しみを背負って戦場に居る。戦場だけではない。生存のためのあらゆる悪業と闘って生きている。その苦しみを自分だけではなくあらゆる人々の苦しみを見たのです。他心通神通力と言います。他人の心が見えること。自分も苦しいが全く同様に敵も苦しい。そうすると戦闘できるか。できないのです。このような心境になって自殺するひとは少なくありません。先の赤木俊夫もそうでしょう。 人間は自分の苦しみだけを背負うわけではありません。ひとびとの苦しみを背負うこともあるのです。自身のこどもさんを自殺で失った親たちは自分を責めますが、同時に他人様のこどもを気遣う精神を育てます。病人には病人のことが手に取るように分かるわけです。そのにようにお釈迦様には他の人々の苦悩が見えて見えてしかたなかったのです。他心通です。自分の心が他人の心と筒抜けなのです。そんなことは普通はありません。だから衆生であり有情であり凡夫であり、そして覚者へと向うのです。 発心とはそのお釈迦様と同じ心境に立つことです。向上心と人の痛みが分かる大悲心とです。 お釈迦様の運命は、有情の苦しみを見たことに起因します。菩薩みち 菩薩道と言います。十五仏の右側の五体です。簡単に言えば思いやりの世界であり、みんなといっしょに生きよう世界であってまだまだ如来様の自他平等無二ではありません。 親しみの心を広げるマイトリーヤの世界。人の痛みを知るというカールニヤの世界。人に喜ばれるを喜ぶというシュッダプラモウダの世界。平安を楽しむマホーウペークシャの世界です。その中心は胎蔵大日でアビラウンキャン。この世の苦しみを見続けてその解決に腐心する覚りの胎動です。つづく、というか既説

    • 三つ目の解脱が来たぞの画像

      三つ目の解脱が来たぞ

      一つ目の解脱はお釈迦様の理解、即、スッタニパータ四章⑮経二つ目は空海様の理解、即、理趣経意訳そして三つ目は肉食からの解放。最近シーフードに限定していたが、多少心残りはあるが、豚さん牛さん鳥さんをいじめるのは止めた。ずっと自分を苦しめていた彼らの飼育と殺戮から解放されたのだ。万歳万歳万歳。残るは、家族という最終的所有からの解放と寺からの解放だ。寺からの解放は名利からの最終的解放であることは間違いない。それに比べれば三十万円の車の所持は小さいことなのだ。

  • 15Oct
    • 何か違う

      おかしいなにかが支配されている支配から出よう

  • 14Oct
    • 基本的人権を守らない人間は殺しても良いということかの画像

      基本的人権を守らない人間は殺しても良いということか

      今回の政府の行為はこういうことか特定の思想を推進する日本学術会議は例えば集団的自衛権に反対という非国益行為をしているから後任の選定権利はないから、政府が決める。ならば逆に、政府が集団的自衛権を否定している時には、集団的自衛権を推進しようとする思想家は日本学術会議には任命されない。益川氏によれば、日本学術会議は戦争の反省に立つ。ということは確かに先の戦争群を肯定したい安倍政権とくに戦前の政策を肯定したい政権にとっては、戦争反省できないわけだから日本学術会議は煙たい?存在である。まあだから現憲法も二度と政府の行為によって惨禍が起きないように戦争反省しているわけだから早く改正したいわけだ。この文脈ならば、菅が任命拒否するのは良く分かる。前の戦争は正しいし、これからも戦争できるためには日本学術会議は邪魔だ。しかしそれは自分の意見を押し通しているだけではないか。つまり思想の自由の侵害である。今日も言い分が迷走してしまったが、今回言いたいのは、つまり問題点は、戦争反省している人々は排除したということだ。完全な思想弾圧である。言い換えると思想の信条自由を認める人間は排除するということだ。つまり基本的人権の否定だ。言い換えると基本的人権を守る人は排除する。ということ。仏教は平等を説くとしよう。貴賤を認めない。ところが、宗教は人の行為に序列を付ける。例えば殺さない、嘘をつかないなど。それは置いておいて、宗教は人を差別しない人を愛でる。ということは人を差別する人を蔑むわけだ。人を差別しない人が上で、人を差別する人が下である。ということは宗教は人に上品と下品を付けるわけだから、人を差別していることになる。ある時私は仏教の美徳は平等です。お釈迦様のつくったサンガ共同体は序列を付けない。例えば会合での席順ですが、席順はない。必要なときは入団順です。このように説明したところ、それを聞いたある教授は「それはつまらないですね。覚ったものも覚らないものも同じ扱いですか。努力したものも努力しないものも平等ですか」と言った。憲法25条に「全て国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と。これは努力とか能力の否定でしょうか。そうなのです、仏の目から見ると皆同じなのです。それを平等といいます。ではさっき指摘した、差別しない人が上で差別する人は下というのはどうなるのか。差別しないようにしなさいというが差別はしない?どんなことでも考えられるし表現が出来る、しかし実行は制限がかかる。菅は実行したわけですね。

  • 10Oct
    • 結局、恐怖心がすべてを壊していく

      マントラ呪文にアビラウンキャンというのがあるavirahuumkhamだしかしこの元をa-bhiira-huum-khamとするならば、意味は恐怖が無いように努力してこの世界中から恐怖をなくそう、という意味になる。どちらにしてもこの呪文は、この世の苦しみを正視して解決せんとする意気を示す。その時に邪魔なのが我が恐怖心であり、その解決すべきは他者の恐怖心なのだ。しかし恐怖心とは未だ来ない苦しみの先取りだ。禅などではいまここを重視して先の恐怖を捨象する。しかしそれは問題の先送りでありセレブの思想だ。恐怖心とは実は現実なのだ。敵が居るかもしれない。恐怖心を使って人々を奴隷にしようとする輩だ。彼等こそ恐怖心の俘囚なのだが、愚妹故に覚らない。他人はさて置き自分はどうだ。恐怖を脱すれば自分がどうなのかが分かる気がする

    • ベルグソンが考えていたことを考えていたら別の考えが湧いてきた

      確かベルグソンは利己愛は家族愛なり家族愛は郷土愛となりそれは愛国心に広がっていくかに見えるが決して人類愛にはならないと言っている。ところで今回の菅の日本学術会議破壊は河野の暴走も含めて考えると戦争が遂行できる国家づくりの一貫であるということ以外の答えは無いようにおもう。そうなると彼らの意向なのか米国の意向なのかも問題だ。当然集団的自衛権容認はその組織体系からしても米国主導としか考えられないからである。それはそうとして本題は、私たちが何処に線引きするかという問いである。国家というものに線引きしているということ。家族という線ではない。地球とか生き物とか人類という線引きでもない。中国とのの国境に置いている。この意味である。中国が台頭してきているのだから過去の加害も含めて攻撃を受けるかもしれない。それはない。ではなぜ軍備増強して最期の仕上げとして国民世論を一本化するのか。そのときである。集団的自衛権に反対している私もいつ学者とか宗教者としての地位をその思想を根拠に排除されるかも分からない。つまり、とうとう我が思想は私をこの国から排除する人々の明確なターゲットとなったのだ。問題はその時の私の心理である。もう抵抗してもだめだなあと思ってくるとき、私に恐怖感が生まれてくる。たぶん多くの学者は忖度どころか恐怖感を抱いている。その恐怖感が線引きの位置と度合いに関係しているという発見だ。その恐怖感が国境線に線引きさせているのではないか。その線を点線から実線へ、実線から太線へと深化させているのではないか。このことである。簡単に言えば恐怖によって保身しようとする思いが強くなると何らかの防衛本能も有って適当なところに線引きするのだ。それがナショナリズムというわけである。家族とか同志に線引きしたいが、それは心細いのである。いっそのこと地球とか人類という枠で線引きすれば戦争は回避できる。そのことが明々白々であるのにその随分出前の国境に線引きする自分が在る。当然、今までは地球市民という線引きで生きようとしてきたしこれからも転向するつもりはない。ナショナリズムでは戦争は回避できないからだ。言っておくが今菅がやっていることはそんなものではなくてもっと愚劣な行為だ。憲法違反、権力濫用、排他的暴力だ。しかしその暴力は単に生活を奪うだけでではなく既に心を破壊しつつ有るということだ。その手前の的は恐怖ということだ。恐怖を取り除けば、何のことはない人類とか生命体に線引きして皆一緒の調和に向うのだ。そうすれば先日自殺した二十歳のこどもも今後は死ななくて済むようになる。

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      試験に落ちた人が答案を自分で書き直すという

      国民のみなさん。基本的人権をもっとしっかり考えましょう。私の理解では天皇の国事行為というのがあります。それは天皇が決済するのではなく国民主権のもとに国会で決めるなどして、決定されたことをそのとおりに行うのです。天皇が選定したり決定していません。と、同様に首相の任命は日本学術会議が選定し決定したことをそのままに任命するのです。つまり人選や決定の権利はないのです。もしもあるとすると、日本学術会議というのは首相の私的機関ですから、税金など使わずにポケットマネーでしなさいということになります。ですから任命と決定の違いをはき違えた暴挙のほかなりません。国語力の未熟さと傲慢さの産物でしょう。しかしそれよりも問題は、思想信条の自由を全く分かっていないことです。無知蒙昧です。国語力、正確には法律用語が理解できない。それはたぶん意図的にやってますから、無知というよりは貪欲ですが、それ以上に他人の思想を侵害するという点では三毒の排他に繋がります。ですから三毒の奪う、排除する、傲慢を兼ね備えた暴力行為であります。今回は集団的自衛権等に反対したかたなどが排除されたみたいですが、政権が代わればその政権が気に入らない人を排除できるということになります。何を想うか、何を考えるか、何を訴えるか、手前味噌ですが空海さんは「始めに思いあり」と説きます。ですから思いは大切です。そして思いは自発的に出てこそ思いです。悪い思いも含めて思うことを思い、そしてそれを各自が点検し行為に結びつけていくことが生きるということの大事な一つです。その思考行為を制限するのが今回の暴挙です。何人も他人の心に踏み込んでは行けないのです。また三権分立があります。権力は分立することによって互いの暴走を食い止めたり、発展できるという仕組みへの思考です。今起こっているのは権力が、思想を支配下に置こうとすることです。大学や研究機関や文化機関やマスコミへの政府の介入は目に見えて顕著になっています。NHKは安倍政権なってから急速に政府の広報機関へと傾斜しています。東大の学長選定も政府の関与が問題とされています。研究者によって学問の府をになう人々による学長選びが大事です。こうしてあらゆる機関が政府の下請となるとどうなるでしょう。空気を読む、忖度するとは、奪う排除する傲る人々の支配下に自ら奴隷となることと既になっているし加速度的に堕落していくことは避けられないでしょう。人々は生きる精気を失い心的に自殺していくでしょう。

  • 07Oct
    • 世の中は二通りの人間に分けられるように思ってきた

      それは政治的人間と情的人間言うまでもなく政治的人間とは、生きるために手段を選ばない。追い詰められても同じ情的人間とは、自分を捨ててでも他人と生きようとする。行きようとするとはなんだそれこそ輪廻だ輪廻は二通りではなく、六通り+一の分類を試みた地獄、とは苦しめられること餓鬼とは分かっていて他人を苦しめる人畜生とは分からずに他人を食う人阿修羅とは、いろいろ分かってきたのに、他人を傷つけては行けないことや、本能的に快楽追求では行けないことや、他人の心が見えてきたのに、殺し合うことを命じられていたり、そうしなければ自分や家族の命が守れない人人間とは、以上どれを選ぶかを任されて居るにもかかわらず、躊躇して六道を移動するひと天とは他の五道を忘れてひとり楽しむ人+1とはブッダ六道から出る人

    • ある人が死んだ。自分で自分を去ったの画像

      ある人が死んだ。自分で自分を去った

      誰かのことを知ってそれを助けれたら良かったと思って近づこうとするとき、どうしても上から目線になってしまう。例えばしょうがいしゃが死んだときに、何か理由が有って死んだと思いたいからしょうがとかブラック企業とか過重労働とかピンはねとかそのような理由探す。それは一度見下げた彼等や彼女を見下げるのではなく持ち上げる為かもしれない。それは罪悪感の消去だ。その罪悪感が洗脳から来るのかそれとも自分に在る人間性すなわち隠された本性から来るのか。結論わかっている。例えば空海さまがいうように、他人の子も自分の子も輪廻から見れば同じなのだ。だから他人を先とし自分を後とすべしと言う。それは何の報復か。過去か。人間性か。それとも家族か。ふめいだ。何が書きたかったかというと、みんないっしょという命題が全てをすくうとおもったからだしかし今思っていることは人の痛みが分かるということそのことのみせである。

  • 06Oct
    • えーっ、この人学問の自由の意味分かってるの、こりゃだめだの画像

      えーっ、この人学問の自由の意味分かってるの、こりゃだめだ

      首相は今回の法律違反に関して、(天皇の国事行為と同様に任命は形だけであって、選出という実行は日本学術会議に任せられているからこそ独立していて意味がある。首相が決める会なら休日に私的に何処かの料亭かでやれば良い)、学問の自由とは全く関係ないとおっしゃったそうだがあなたこそ、経歴においても学術においても、あなたと学問とは全く関係ないです。こんな人に任せたら国は滅ぶ既に、人からコンクリートに湯水のように金を捨ててきた政権はどうなる。国益にも反するし、なにより基本的人権という人間生活の基盤が瓦解していくもう一度、学校へ行ってからやりなおしておくれ、この国を滅ぼさないでくださいあなたは政治は出来そうですが、政治とは権力闘争ではなく、国民の幸福が第一です。国残って民無し、たぶん国も残らん。国の宝である学問を傷つけるな