空海さんの曼荼羅での勤行は夢でありました。

京都の東寺に毎年通って坐禅した結果、大日如来は宇宙になったのです。その感激で曼荼羅大仏を野外に請来しました。仏菩薩が宇宙からやって来るというカラクリです。宇宙は空っぽだし無生物と有機物が居て、その有機物は身勝手で他の有機物を餌食にして無知蒙昧に植物連鎖している。このだらしなさを輪廻とインドの古代人は名付けたのです。なぜ褒めずにだらしないと思ったのかは二通り書いています。

 

一つは、やがて死ぬからです。死にたくないのに死ぬからだらしないとおもったのです。これってエゴですね。他を喰らいそれに飽き足らずにまだまだ食い続けたいという貪欲です。

 

もう一つは悔いです。食いの悔い。猛獣は他の生き物を食らってのみ生きつづけるのですが、他を喰うとき涙を流すと言われます。実際は流さないかもしれない。でも流すのです。白熊がセイウチに挑むときでもたじろぐといいます。命懸けでセイウチのこどもを狙う。そして退散したりする。生きるとは命懸けで他の命を奪うこと。人間は、飢えていなくても他人を奴隷にしたり殺します。これを悔いないのはよほど鈍感なわけで、だから毎日テレビでジューシィーなんて吠えるチンパンジーはせめて相手の死後をお祈りをしてから殺めるべきでしょう。

 

というわけで、輪廻とは暗い印象です。輪廻とは死なないけど悔い続ける印象です。現代人は暗く食い続けてやがて死滅します。悔いと死。悔恨と死。二重苦ですね。

 

さて、しっかりとこの現実を直視して自分の悪と対決するならどうなるでしょう。煩悩の退治です。どうぜ空間は空虚ですから自分も空虚となるのです。現代人の空虚とは違います。向こう側が空虚になるのではなくて、こちら側が空虚になるのです。自身の矢を抜くのです。見えない矢の除去です。一般には私の要求に社会が答えてくれないから希望を持てなくて社会が空虚です。それは単なる愚痴です。そうではなくて自分が空虚なのです。それって有機物か無機物になることでしょうか。有情が石ころになることでしょうか。

 

これって最近論文にした観照哲学批判ですね。自分が空っぽになってただ観る存在になる。ウパニシャッドだ。覚ばん聖人だ。デカルトもそんなことを言っている。我思うよって。思ったから何になる。いやいや完全に石コロになにのです。意識のない世界。いや悔いだけが渦巻く輪廻の世界。

 

さてそれが十五仏の内の左の五明王世界です。石ころが泣き叫ぶ世界です。だから宇宙が疼き始めるのです。どうしてかというと石ころになればなるほど世界が回り始めるのです。現実感が戻ってくるのです。さっきまでは自分の貪欲で見ていたから何も見えなかった。今、石ころになると世界がありありと見える。煩悩が消えたのです。でもこれは記憶の世界に違いない。だって今は石ころなのに見えるはずがない。石ころが刻んだ文様だけが見える。でも他を喰らい自分の不死だけを願っていたさっきまでとは違う。石ころは世界を始めて憂えるのです。

 

そこで、namah samanta vajraanaam canda mahaarocana sphotaya huum trat haam maamと唱える。再度世間の苦を見て、見えない矢を抜きにかかるのです。不動明王の周囲には他人の痛みを知って疼く胸を押さえるグンダリ、牛に乗って人助けを誓う大威徳

無知を警鐘する夜叉

悪魔を踏んづける降三世が並ぶ。民成す故い顔をしていてこの世がいかに凄まじく恐ろしい世界かを示している。言っておくが降三世が踏んでいるのは他人ではなく自分に巣くう悪である。

 

さて、右に眼を転ずれば、菩薩がいる。金剛薩埵は指を五つに立てて世の人々が救われるようにと慈悲を起こす。というより、この極悪世界の裏返しの心であるから。架空である。汚い世界がなければ綺麗な世界は出現しない。裏腹である。aviira huum khamまたはa bhiira huum kham,aaviirya huum khamである。

ああなんと痛ましい世界かな。この苦よなくなれ。といううめき声がアービーリヤ フーン キャンである。その金剛薩埵のうめき声は四囲に広がって慈悲喜捨の心となる。

簡単に言えば、敵を作らすだれとでも握手できる心の修養。いつくしみ無量心

人の痛みを知るかなしみ無量心

施しやボラいティアを実行して、喜ばれるを喜ぶよろこび無量心

自分や他人の心を大事にして小事を捨てるすてる無量心である

この心を修養すると心が軽くなるから不思議である。

 

そしていよいよ中央の五仏に向かうのである。

 

さて、これは毎朝の勤行であるので、この坐禅の前には読経が終わっている。慈しみの経と見えない矢の経を日本語で読み、理趣経百字偈を日本語で読み、理趣経を漢語で読む。漢語だが当然意味を取りながら読む。その後にこのマントラ世界に入るのである。なぜなら空海さんが言うように理趣経こそが曼荼羅の意味づけだからである。理趣経を理解していないものはマントラを読んでも無意味である。