心の分解 心を五つに分けたのが五仏

 フロイトは心の奥にエスという欲望(青色)を想定し、それを超自我がコントロールすると考えた。このエスはブッダの見えない矢と同じく見えないが無意識として暴れ回る。
 マルクスは意識が貨幣など環境(緑色)に乗っ取られると示唆するが、それは緑と。
 インドの世界創造神話は、在が、カーマ=意欲して、考え、雑多なものへと分化したと考えた。
 最古の経は欲望が走るとき、出会ったものがカーマ=欲しいものとして現れると考えた。
 修行前の凡夫においては左の表の青色はカルマ(過去の行為・罪の悔恨)であり、カルマによって欲望が走るとき、赤色のものが見え、緑色の行為が始まる。
 覚者においては、カルマは浄化されて青色の大円鏡智となり、あらゆるものをそのままに映し出す無色透明の心が土台となる。善無畏はこれが涅槃と説明する。菩薩は涅槃に到達できるが行かず衆生救済をすると説く。ここに妙適清浄が成立する。
 明確なのは菩薩のベクトルは衆生救済である。菩薩自身は涅槃の近似値であるから欲望を持たない。それでいて衆生に共感して利他する。

心の分解 アートマンの否定が大円鏡智であり

ブラフマンが法界体性智であり

大円鏡智が接触する対象が他の三である

 輪廻思想では輪廻する本体を我(アートマン)と考えた。仏教はその我を否定したと一般には言われるが、ブッダの出身が別の文化圏であり、未経験の事柄について仮説を立てない以前の文化であったとする説を私は支持する。それでも日本語で言うところの魂というものを考えるは人間としての思考であろう。一度も魂を想像しない人はいない。その範囲では輪廻を想像しない人もいない。同時に死んだらゴミになるも想像できる。
心の分解の五つの内の三つは分かりやすい。まずブッダにとっては青色は見えない矢である。ショーペンハウアーは盲目の意思という表現をしているが、意識が確認したときには既に走った衝動が見えない矢である。
 その見えない矢の対象が三つ在る。
①自分=黄色
②記憶や思考=赤色
③感覚器官で接触できるもの=緑色
見えない矢は自己に執着し、思考を独善的にし、接触するものを取捨選択する。ならば、見えない矢を消せば全て消えると涅槃仏教は考えた。それに対して正しい矢をつがえ直せば利他行できると菩薩は言う。しかし皆一緒に生きる事がブッダの文化だったに違いない。