石手寺の大事なことに悩み相談があります。どのお寺でも悩み相談をしているかというとそうでもないようです。先日、尾道の浄泉寺さんでインド仏教指導者の佐々井聖人のお話を聞きましたが、そのときの質問者の問いが「今のお寺は悩みを聞いてもらおうと門を叩いても出てきてくれない」というものでした。
 昔は、お寺というのは住職の私物ではなく皆のものでした。戦後間もなくのときは、食べていけない人が寺にやってくると泊めていました。石手寺でも納屋などに何人も居たのを覚えています。その後、困窮者を泊めることもなくなり、相談に来た人に応対することも減ったようです。
 石手寺では今も、ホームレスの人や障害の方やひきこもりの人が来られるとお泊めします。また毎日、電話の側にいる限り悩み相談を受けています。またお寺に来ていただいてお話を聞きます。突然来られた場合でも手を休めてお話を聞きます。
 この駆け込み寺や悩み相談を熱心に始めたのは先代方丈さんです。私はその姿をみて育ち「この人助けはロケットを飛ばすよりも自分の仕事に相応しい」と思って僧侶になることを志しました。ですから、私にとっては修行と並んで大切な仕事であります。
 先代方丈さんは、相談に来られた方の話を聞くときは、もうその相手の心にどっぷり嵌まっていて、相手のことだけを考えられていました。その姿を思い出すたびに私は自分の殻の小ささに恥じ入るばかりです。
 そういえば仙遊寺さんも熱心と聞きます。ご住職さんは在家の出身と聞きました。先代方丈さんも在家出身です。当然ですね。大方のお寺が世襲になったのはつい最近のことですから。世襲になってからお寺は閉鎖的になりました。どうしてだと思いますか。
 私の謎解きですが、先代方丈さんは家が貧しくて、それでも勉強をしたかったので、お寺に丁稚奉公して夜学に行かしてもらったのです。法文学部を出たといっていました。その頃は寺も貧しくて、先々代さんは旧九州帝大の教授で、その給金で弟子を育てていたようです。そんなことで、お寺に入ってやっと食べることができたし大学に行くことができたのが先代さんです。
 だからお寺にすがろうとしてやって来た人々を追い返したことがないということです。仙遊寺さんも同じ心境ではないかとお察しします。
 人間は自分がされたように恩返しをするのでしょうか。頭では慈悲行しなければならないと思っていてもなかなか大胆にはできません。身についたことは考えなくてもすいすいとできるのです。