新聞社やテレビ局がインタビューにきました。
「阪神淡路震災から二十年ですが。感想はどうですか」「今後も続けられますか」と聞きます。
 考えてみれば私がまだ三十代後半の惨事でした。あれから何故か各地で災害が多発したように思うし、四年前には東日本震災が起こり、東北の海岸部は壊滅し、原発は吹っ飛び日本は終わるのかと息をのんだのです。でも考え方を変えれば、二十年という間には、いろいろな苦しいことが起こるのは当然とも言えます。二十年は短くないということです。
 人間界はもっと酷いでしょうか。
 二〇〇一年には貿易センタービルがテロにあいました。そしてアフガニスタンを米国が復讐攻撃。二〇〇三年には、イラク侵略。日本も加担しましたが、これは今となっては完全な暴挙であり、国際司法裁判所で裁くべきだという声もあります。私もそう思います。
 ですからこの二十年の間には、大地震が二回、そして日本は二度の侵略戦争に賛同し、ついには自衛隊をイラクに派兵したともいえます。それでもまだ日本の国は誰かを殺してはいません。
 これがこの二十年の変化でしょうか。
 もう一つ見逃してはならない変化は、経済先行きの不安と、終身雇用の崩壊と、地方経済の崩壊と、派遣労働の定着でしょうか。
 東京と地方との格差。正社員と非正規の格差。貧富格差です。男女差別も解消せず広がったでしょうか。そういえばヘイトスピーチに表れるように、民族や国家の対立憎悪が増大しました。そしてそれを歓迎している人が居るように危惧します。

 阪神震災20年の思い出と反省を語るには、なにやら妙な書き始めになったでしょうか。そんなことは震災とは関係ないと思うかもしれません。でも、私が「私なりの救援活動」をしてきて実感するのは、まさに弱者の後退や高齢化や、地方の衰退や、政治の後退です。
 「一道万芸に通ず」とかの宮本武蔵は喝破しました。一つの問題を切り下げていくと、色々な問題が鮮やかに見えてくる。私はそのように実感しました。私がこの阪神震災20年に感じることはこのことです。

 石手寺では節分が多忙ですから私が神戸に上陸したのは阪神震災から二週間後でした。直後に行かれた方は「道端におくの遺体がビニールをかけられて半ば放置されていた」と言ったのを覚えています。私が着いたときは神戸の国道は真っ暗で、まるでゴーストタウンを行くようでした。午前四時だったでしょうか。そのまま私たちは西宮のスクールスバル?というところに行きました。こんな早朝というのにスタッフの方は起きていていただいて私たちを迎えてくれました。そして二時間ほど仮眠して、パンパースとかティッシュペーパーの配達を始めました。
 私は黄色いバンドの千円時計を持っていましたが、その時計を私たちが持って行ったトラックに乗り合わせた若者が見つけて「おもろい時計しとるな」と言われたのをその時のように思い出します。そして「どこから来たん」と聞くので坊さんであることを言うと驚いていました。彼に「あなたはどうしてこのボランティアをしてるんか」と聞くと、彼は「うちも被災したけど何もできんから、ボランティアしている。助け合わんとなあ。家は傾いたままやけどす住めんことはないから」とたいそう気さくに話してくれました。川べりで休憩していると、電車が到着するたびに本当に大勢の人がやってきます。みんな大阪方面から「何かせな」という意気込みで来ています。でも夕方に彼らは「なんか不完全燃焼やった」と言いながら帰っていくのを覚えています。
 私たちが最初に起点としたこのスクールスバルというボランティアのグループは既に地図を作って、各家に訪問して、必要としているものは何か、困っていることは何かの聞き取りをしていました。私たちはこのグループに連絡をとって仕事があるということを確かめて来たのですが、その計画的な作業にびっくりしたしまた、真剣さを感じました。
 しかし、私たちもやはり「思ったほど役に立たない、不完全燃焼の気分」でした。そこで、また公衆電話をかけまくって次のボランティア拠点を探しました。そして朝日新聞厚生組織へ家移りします。何のことはないボランティアに来て難民化したのですから。行ったところは四階建て?で、その日から二階?の何もないコンクリート床の上に段ボールを敷いて寝袋で寝る生活が始まりました。それは後で分かるように避難民の方々とだいたい同じ様式です。夜は各地から集まってくる洋服の仕分けをしました。綺麗な服もあれば、着古しのもあります。きちんと洗濯したのもあれば着流しのようなのもあります。
 どちらかというと服捨場だったかと思います。時代や文化状況によって善意というものの評価も変わるのです。これがインドのストリートチルドレン用だったら、豪華な服かもしれません。でもこの時代にこんなものを送ってどうするのという感もありました。だからでしょうか、身銭を切らなければ真の救援活動にはならないと今も思っています。
 さて夜は古着を仕分けして、使えるもの使えないものに分けるわけですが、昼は文房具の配達員になりました。そうそう、私たちはトラックで行きました。四人で行きましたが一人は非難所に直行、私たちは毛布やバイクや焚き出し道具をもって来ていましたから、暇なときにはそれらを配り、夜は焚き出しもしました。そして昼は倒壊していないベッドタウン行きの高速を通って加古川と須磨や長田や湊川や灘や西宮を往復しました。一日三往復です。
 加古川の農家は苺の取り入れを迎えていましたが、毎日全国から文房具が届きます。これがまた新品のものもあれば、鉛筆の十センチより短くなったのもあります。使えるものと使えないものを振り分けてそしてトラックに満載して、神戸へと戻るのです。農家の主人からは「何とか納屋を空っぽにしてくれ。苺の収穫ができん」と途方に暮れた表情で頼まれました。しかし全国の国民の熱意は一トントラックを満載にするどころか、納屋の増築を促してばかりでした。
 私たちは満載にしたトラックで突っ走りました。そして手当たり次第に避難所をまわります。百カ所以上行ったでしょうか。
 避難所はどこも人でごった返していました。冷たい体育館に段ボールを敷き、囲いのない隣同士が暮らしていました。一日や二日ならなんとかなるでしょうが、古希ような状況で数カ月、いやいや仮設住宅が出来るまで半年以上でしょうか。長期間暮らすことはほんとうにおつらいと思いました。
 話は前後しますが、私の震災のイメージは最初は倒壊した高速道路だったかもしれませんが、どんどんと辛い方へと深みに入っていきます。まず、倒壊している家もあれば全く無傷の所もあります。
 倒壊している家も傾いただけの家と一階がまるでもともとなかったかのように二階が落ち込んだ家。人が死んだだろうと思われる家とそうでない家。これらはまったくはっきりと分かります。そして東灘では、辺り一面が木造の古い住宅だったらしく、砂場のように倒壊していました。多くの人が死に、多くの人が生き埋めになって助けを求めたそうです。うめき声があちこちからして、助かった人がそれを助けようとするが、重たい住宅の下になっていてどうしようもない。そして火事が起こったのです。
 その後、私たちは長田区の方面で一面焼け野が原になったところを通りました。
 その時は全く絶句でした。
 ここで多数の人々が焼け死んだのです。それは後になってから、愛媛県に非難した被災者から聞いたのですが、向うから火の手が迫ってくる。そして生き埋めになっている人が居る。仕方なく逃げたということです。その人は、毎年一升瓶を持って石手寺の追悼式に参加されました。そもそも慰霊祭をしてほしいと言われたその方によって追悼式が始まったのです。
 ビルが倒れ、高速が横倒しになり、煙と火の手が上がるテレビを見て、何かしなければと駆け付けたときは、まだ余裕がありました。パンパースを配るときもそうでした。でも、倒壊した家屋の側に行き、焼けただれた土塊を見て、人が死んだことを実感しました。
 そして、焼けていく人を助けることも出来ずに非難した人の声に唸りました。
 でもそれには続きがあります。追悼式に来られた方から言われました。「私の娘は大学に通っていて亡くなりました」。
 私は自分がしている追悼式というのが一体何なのかということが、やっと分かってきました。
 人間とは自分が痛まないと何も分からない生き物です。悲惨なビデオを見ても、その絵の向うにある痛みを見るときと見ないときがあります。私は幾つかの証言を通して、やっとその痛みに近づきました。
 ひょっとしたら、娘さんを亡くされたお母さんに言葉をかけられたから痛みが分かったような実感をしたのかと思います。
 あるいは、その痛む人が私に近接して顔をゆがめ涙をぬぐったから私に痛みが生じたのかと思います。
 その痛みが、その後の二十年にわたって私たちを動かしてきたのでしょう。そしてその痛みがこれから私たちを動かしていくのです。