仏教革命・仏教とは何か・その本質を仏陀の最古のお経(スッタニパータ4章特に15経)を参考に考える
?まず仏教というと何を思うか
①葬式
②空・哲学
③坐禅
④初詣や祈祷
⑤無神論
⑥神ではない仏は居るのか
⑦仏とはいったい何
⑧平和・平等の宗教
こんなところでしょうか。現在お寺は三種類に分かれるでしょう。経済基盤として1葬式2厄よけ、納経料など現世利益3純粋な修行や利他行への布施(寄付)。明らかにこれらの内の1と2は仏教の内容と関係ありませんと言い切ることは難しいですが、ひょっとすると葬式や厄よけや合格祈願や病気平癒などは、仏陀釈尊や弘法大師や親鸞さんや道元さんの教えがどうであろうと、その仏教の教えとは関係が薄いのです。

①葬式については、葬式は?死後にどうなるかと?遺族の悲しみの克服の二つが問題です。?の死後を仏教はどう説くかは、インド仏教では特に輪廻と輪廻からの解脱を説き、中国仏教では極楽往生と万物斉同(死んでもでもそのまま)を基調とし、日本仏教は近代科学を克服できず、死んだら塵~誰でも極楽往生~輪廻まで結論を得ず瞑想している結果として、戒律軽視で罪を罪と思わない死後を相手にしない状況にある。つまり、この世の善行悪行と来世の生まれる状況の関係が不問となり、葬式でお金を積んで何かの宗教に頼れば、その僧侶なり祭司が適当に悪くない来世(六道輪廻の否定)を適宜に説示して、ある意味で無責任な往生を勧める事となっているのではないか。それはそのまま?の遺族の安寧においても、故人の生前の善悪を問わずに、臨終後の戒名料などの多寡に関心が集約されることとなる。
 総じて①の問題に関しては、聖職者の態度は曖昧であり、たとえば輪廻を想定するならば因果応報の問題が生起するし、無であるなら葬式の意味が問われるし、極楽往生ならば、やはりこの世の行いとの連関が説明されるべきである。そういう観点からすれば今以上に、この世の善悪と来世の関係性について、断定不可能であっても、来世の可能性とこの世の関係について種々の仮説上の論説が待たれる。それなくしては現今の仏教は、来世を曖昧にし、そのことによってこの世の罪と意味を捨象してしまうという良く生きるということの契機をなくすという罪を犯す事となる。

②哲学的に仏教は意味があるか
 仏教は宗教というよりは哲学であるという人も多い。その理由は、空とか中観の哲学がたとえば鈴木大拙さんによって西欧に広まったり、嘆異抄の悪人正機説が興味深かったりするからであろう。しかし私は後で示すように、高邁な哲学は逆に邪魔であると判断するようになった。なぜなら、そのような難解さで競うならば、量子力学や相対性理論はもっと難解であるし、相互依存理論などよりも、人間関係の方がもっと相互依存的だとするなら、空などはちっぽけな理論に見えてくるからである。
 それ以前の問題として、輪廻とか空とかビッグバンとか量子力学とかは、存在論として示すならば、古代より、インドでは巨人伝説と有無創世記神話、中国では混沌創世神話というように各時代にそれぞれの存在論あるいは世界観が人々を支配している。現代なら新自由主義というのも一つの存在論である。ここでいう存在論とは私たちがそれがあると信じている存在者の群れと関係性である。たとえば、実に死後の世界である輪廻は確かめる事はできないが想像する事はできる。だからあるとも言えないし無いとも言えない。空にしてもあるかもしれないしないかもしれない。実はあるかもしれないしないかもしれないことを空といっているかもしれない。断定できないのである。哲学のそもそもの価値は、私たちが思い込んでいるところの「何々がある」や「なになにが分かる」ということを疑う事である。極度に疑えば帰宅する家があるかどうかわからないが、だいたいこれから帰宅して食事にありつける。そのようにしてそのようになったと思う事を繰り返している。しかしいつの日かそれはそうでなくなることもあるが、だいだそうであるからそうであると思っているのである。
 現代科学といわれるものもたいそう疑わしいものもある。しかし、顕微鏡や望遠鏡というものを通して、たとえばある病気が生霊や物の怪を原因として起こるのではなく、特定のウイルスを原因として起こるというような発見によって、迷信が取り除かれたということは正しい。というより間違った仮説がたくさんあったというべきである。その間違った仮説としての哲学や宗教も多々ある。
 これを例えば「仮説と証明の歴史」とするなら、霊があるとかないとかいうことを存在論とし、それを確かめ得るかどうかを認識論とするなら、人類の智慧の歴史は、存在論と認識論の相剋ということになる。その意味は、仮説と嘘の繰り返しということになる。
 そこで、仏陀の一つの智慧は、「仏は断言しない」という教説である。これは「仏は何も説かない」という教説とは異なる。仏は何も説かないとは、純粋無垢なアートマン説の延長上である。対して、仏は断言しないとは、次のような不明な設問に答えないという態度になる。
①死後霊魂はあるか
②死後どこへ行くか
③世界は続くか(死後もあるか)
④如来はどうなるか
 このような、はっきりしない問題に答えないのである。それを無記(記述しない、言わない)と示した。たとえば、私が援助で毎年通うビルマのカレン族は今ミャンマー軍に侵略されていて、多くの両親が亡くなり孤児がタイ国へと難民化しているが、その子どもたちにとっての問題は、今日殺されず、食事にありつけ、寝るところがあり、やさしい寮母さんがいるということである。その救援は残念なことに日本や東南アジア諸国からは援助が少なく西欧からの援助が多いために、彼らはキリスト教化していっている。だから、確かに死後のガッドによる救済や、この世の神の子であるとの神託は、安心感の増大になるし、子どもたちの不安を和らげることともなるが、神が私たちをつくったとか、死後審判によって救われるとかいうことを説く宗教があるが、仏陀は説かない。なぜなら、どちらとも言えるし、輪廻という別の仮定もあり得るからである。
 仏陀は、不明なことは不明とする。その原因は、それよりももっと危急の問題があることを重大視しているからである。それは、日本国憲法に明確にされた「平和であり、恐れと欠乏という苦しみがないこと」である。
 とするならば、空とか縁起とか無我というのは、実は仏陀にとってはどうでも良いことだったのである。
つづく