たとえばつい最近まで韓流といって韓国の芸能が流行ったが、急に嫌韓といって韓国を嫌う風潮が出始めました。その問題は何かというと、もともと好き嫌いはあっても良いのだが、「みんながそう言っているから、・・・」というので、好きになったり嫌いになったりするのが怪しいのです。そしてそれよりも、特定の人を好きになったり嫌いになったりするのは分かるが、何人だから嫌いだとか、何国だから嫌いだというのはへんてこな感じがします。
 そもそも仏教では平等心といって、人を差別したりしないことを勧めます。その意味は、不殺生といって誰かをいじめてはならないということと、人を差別すると自分の心が卑しくなるということです。
 まず、不殺生の問題です。お釈迦様は闘争を嫌いました。
 そしてもう一つは、心の対立を嫌います。その第一は、人の痛みを感じたので、お釈迦様は、相手を傷つけることができませんでした。しかしそれだけではなく、心の中に敵をつくるということは、幸福ではないと見たのです。
 誰かを憎むというのはつらく苦しいことです。そのことは誰しも経験しているでしょう。しかし、自分の境遇が悪いときや自分が苦しい時に、他人を仇に仕上げて自分を守ることもあります。自分の不幸を他人のセイにするのもその一つでしょうか。
 私たちは色々な契機で人を憎んだり、人を嫌ったりする危険と隣り合わせにいます。それでも、誰かを憎むというのは、不幸なことでしょう。ずっと誰かを敵と思い、その敵と一生過ごすのです。それは時間の無駄かもしれません。自分心が丸くて満足していれば、誰かを敵として登場させる必要もありません。ですから何かを憎むということは自分の心が満ち足りていない証拠かもしれません。その上、誰かを憎んだり嫌うことは、その人を傷つけたり、嘘をついて貶めようとする原因になりますから、実際に相手を苦しめてはその報復を受けることとなります。
 そうするとそれは心の問題だけではなく実際の闘争となります。つまり不殺生戒律を守れなくなるのです。そして憎しみの連鎖が始まります。
 そう言えば9、11の貿易センター破壊テロ事件以降、復習の戦争が繰り広げられました。その結果何十万人の人が死んだ上に、それらの標的にされた国は内乱で多くの人々特に女性や子供という弱者が死んでいます。
 もうこうなると、魑魅魍魎の世界になります。何がなんだか分からない世界です。要するに、憎しみを晴らすためにのみ生きる世界です。侵略戦争で酷い目にあったから復習する。復讐されるから軍備増強する。そして相手を憎む。いつでもやってこい受けて立つぞというような妄想と幻想の恨み合です。その上、受難の当事者でもない人が、敵を呪ったり、敵国を罵ったりするのは意味不明です。実際に家族を殺された人々の声を聞いて、そこで皆で懺悔すれはもう少し明るい未来が見えてきます。
 だから仏様は、恨んではいけない。敵視してはならない。みんながともに幸福であるように先ずお祈りしましょうと言われたのでしょう。
 もう一つあります。
 敵対する人は、そこで人生が止まります。でも敵対しない人は、その次の人生へと進みます。これはその人にとって大きな違いです。
 もっと大きくてもっと広い幸福へのステップを進めようではありませんか。