仏教偈   1990年作    

生きるとは苦しみである。

原爆が炸裂し、肉が溶け、心が呻吟した。
力や幸運を持ち合わせたものは、高級車に海外旅行を重ね、
生活困窮者は、我が子を飢えさせ明日を知れぬ日を送る。
夫が交通事故にあい、その日から家庭は底辺の生活になった。
人は、動物実験をする。人体実験を。拷問を。そして我が身は痛まない。
生物世界は、弱肉強食、食い合い、傷つけ合いの世界である。
生命は、自分を保持する物、
食物、空気、重力、自然、地球、太陽、宇宙がなければ生きていけない。
生命は、他の生命を食わずには生きていけない。
生命は、ひとりでは生きていけない。
生命の歴史、人の歴史は、殺戮と、恐怖と、残酷と、悲惨の歴史である。

生命は、絶えず不安にさらされている。
人は、飢えに苦しむ。
人は、病気になる。
人は、老いる。
人は、恐れる。誰かが襲ってくる。この自分のように小心で凶暴な奴が。
人は、常に周囲を気にし、将来を恐れなくてはならない。

人は、いつも不満に襲われる。
人は、より心地のよいものを欲しがる。より美味しいもの、より美しいもの、手触りのよいもの、刺激的なもの、贅沢品を欲しがる。
人は、他人と比べて、勝った負けたと意識し無意識に思い、嫉妬する。
人は、得るにしたがって飽きる。
人は、自分に安らぐことができない。物で心を満たそうとする。
他人の目を気にし、人に認められて安心しようとする。
人は、今、現在の自分を楽しみ続けることができない。

人は、競争する。
人は、必要以上に他人に勝とうとする。
人は、他人を支配しようとする。
人は、自分の支配領域を拡大し続ける。所有を増やす、奢る心を太らせる。
人は、時々、他人の不幸を喜ぶ。
人は、他の心をもてあそんで自分の心を慰めることがある。

生命は、自分を知ることができない。
自分を理解することさえ難しく、制御することはなおさらである。
人が知っているのは、自分を満足させるにはどうすればよいかであり、
自分が何をしているか、自分が何者か、ではない。
人は、自分の正体を知らずに活動する、煩悩の手下である。
人は、食欲や性欲の起こることは知っていても、自分で欲を起こすことはできない。欲は勝手に起こり、我々は、ただ、欲を満たそうと駆け回る。
人が、意識できるのは、私や世界のほんの一部分に過ぎない。
私が知っているのは、私の欲が駆け抜けた軌跡のみであり、
欲の手先となった私が突き当たった事柄についてのみである。

心は、すべてをそのままに受け入れようとはしない。
心は、世界を二分し自分や自分の味方を、良いものと見ようとする。
心は、敵や一度過ちをした者を、悪く見ようとする。
心は、自分の悪いところを認めようとしない。
心は、自分の自尊心や、潔癖心を守ろうと、嘘の自分と嘘の世界を描く。
心は、自分の都合のよい世界観に沿って物ごとの善し悪しを決めつけ、
うまくいくと自分や味方の手柄と見、調子が悪いと人のせいにする。
心は、どこまでも広がっているようだが、実は、どこかに壁を作り、敵を作っている。
そして、自分の汚い部分をなすりつける自己免罪の為のスケープゴートをつくりだす。

しかし、

人は、自分を知る手がかりをもっている。過去を照らすことができる。
自分に光を当てることができる。次の一歩を決定することができる。
利己心が強い一方、自分に引き当てて他者を思いやる気持ちを持っている。
飽くなき欲望の一部に向上心がある。

だから、
自分を良く知ることである。
すべては、自分の考えた世界なのだから。

自分の考え方、湧き出る欲望を変えることである。
自分の、意欲を変えること、深い深い自分を変えることである。

行動を変えることである。
自分とは、深い深い自分と、世界の無尽のからみあいの者であると知って、自分を変えるとともに世界に正しく働きかけ、あらゆる命の調和のために行動することである。
思うとは、自分の世界=体内の中で正しく行動すること。行動するとは、実世界=宇宙の中で他と自分とを正しく結び付けることでなくてはならない。

つまり、
生命は、無反省にそのまま生きたのでは他者を苦しめ自分も苦しむ、生まれながらに不幸な生き物にすぎない。
しかし、この苦しみは、そのまま耐え忍ぶべきものではなく、自己を作り変え、世界の仕組みを作り変えることによって無くしていけるものである。
苦しみは克服できる。

「だれひとり不幸であってはならない」という目標のもとに皆が身を投げ出して努力することこそ、仏の示された無上の道である。
また、この時にこそ、身を震わさずにはいられない生命の高まりがある。
この感動こそ、生存の苦しみを乗り越える唯一の方法でもある。
それ以外に、どのような宝が我々に与えられていようか。
最高の宝とは、自分で自分を越えること、世界を変えることである。
命のひとりひとりが皆、宇宙の運命を背負っている。
神も仏もいない、だから私が仏に成るよりほかにない。私かあなたが仏になったとき、はじめて仏は居たことになる。仏は居ないにもかかわらず居る。常に私達の心の中に。仏とは、我が心である、我が身であると。
それ以外には、我々は、何も与えられていない。
これがすべてなのである。供養とはただほとけを拝むことでは決してない。人の心がわかること。
人の痛み、情けが分かる事である。
それは、仏のマントラ=血の流れ=仏の心をこの世にありありと事実あらしめることである。

生きるとは、自分を変えることである。自分を幸せにすることである。
心の底から自分をしあわせにすることである。
生まれてきてよかったと。ああよかったと。ほんとによかったと。
心の底から。

君には聞こえるか。あの人の心の疼きが。この心の痛みが。
聞こえなければ何度生死を繰り返しても、生まれ死んでもがいても、真に生きたことにはならない。ただ苦しみ楽しんだことが残るだけ。

それでいいのか。生きるとは。