論点、実際に公共性についてある程度知った上で
①公共性は何故必要なのか
②公共性は可能なのか
③実際に「コンセンサス会議」をやったらどういう問題とメリットが出てきたか
この三点で議論していこうと思います。
論点、実際に公共性についてある程度知った上で
①公共性は何故必要なのか
②公共性は可能なのか
③実際に「コンセンサス会議」をやったらどういう問題とメリットが出てきたか
この三点で議論していこうと思います。
第10回
日時:2010年 10月15日(金)20:00~
場所:ゆげ塾
議題:「公共性」を考える-民主共和制の不可能性と不可避性-
コーディネーター:河内
<Introduction>
読み飛ばしていいです
今回は少し専門的テーマを扱います。それは現代の民主政の在り方を考えるという非常に高度なテーマです。しかし学問的好奇心と思考力の向上を求めている人々はこの難問にぶつかってみなくてはならないと私は考えます。それについて少し遠回りの説明をしましょう。
●善と公共善の境界
個人が求める幸福と社会が求める幸福がいつも一致するとは限りません。議論を醸してきたテーマですが「社会の幸福(公共善)は個人の幸福(善)の総和」ではないと考えます。それはニートやひきこもり、アルコール中毒者やそれを支える共依存者は自らの欲求を求め、法的には罰せませんが社会的に間違っていると考えれるからです。
もしそれらの人々を許容し個人の欲求のままに任せていたら社会は回りません。ですから私たちは社会的に善いとされる人間となるために義務教育を受け、後世を担う子供たちに教育を授けます。ですがここで疑問が生じます。「公共善はどのようにして決定されたものなのか?」公共善の決め方、社会的に善いとされる公共を決める原理=公共性について考えようと思います。
●なぜ公共性を考えることが身近な問題なのか
さて以上のことを踏まえてなぜ私たち(大学生)がこの問題を考える必要があるのか。それは私たちが好奇心を持って思考力を高めることがただの善なのか、公共善にコミットするのか考える契機となるからです。
私たちは民主共和制の世の中を生きています。民主共和制はその名の通り市民一人ひとりが政治に参加し、決定を下すことが善いとされるシステムです。先進国の多くがこのシステムをとり自由と平等と理性が人間に対して善いものとされています
しかし一方で私たちは今日民主共和制が名ばかりのシステムであることを知っています。選挙に行く人数が少ないこと、政策や政党について知っているものが少ないこと、一部の資本家やエリートに政治が任されていることを私たちは知っています。知っていて声を上げないのです
これは社会的な幸福が上から押し付けられていると捉えられます。私たちは政治にコミットすることができず、つまり馬鹿でもいいわけです。一部の知識層に決定を任せているともとらえられます。私たちは馬鹿でもいいことを望んでいるのかもしれません。
さてここで問題です。歴史学・政治学・哲学・社会学etc…大学で学ぶ学問の多くが就職してから使う知識ではありません。 私たちは労働力を商品とし思考力が直接社会で役立つのは一部なのです。では私たちが追い求めている思考力の向上・学問の追及はただの(私的)善なのでしょうか?アニメを見たり、マンガを読んだりしているのと同じように快楽だから私たちは学ぶのでしょうか?
民主共和制が名前の通り動いていたら理性的な市民が多いほうが社会はよくまわります。だから人々は賢くなるべきであり啓蒙主義は奨励されます。何が正しいかわからないこそ高い専門的知識とそれを議論に使う好奇心や思考力が市民に必要とされます。
一方で民主共和制が名ばかりであるなら、私たちは苦労して学ぶ必要はありません。毎日快楽を求めていればいいのです。思考力を提供することはできても強制することはできません。
さて民主共和制とはどういったものなのか?公共性とはどうやって行われるべきなのか。知を追い求める人々は考えることをお勧めすることがご理解いただいたでしょうか。では当日お待ちしております
<追記>
お気づきの方も多いと思いますがこれは「私たち」=「非エリート」といことで話を進めました。しかし読者の多くが知識層でエリートであることも知っています。自分の持っている高い専門知識をそのまま社会で通用できるポジションな人(または目指す人)が多いでしょう。その理屈でいえば歴史学・政治学・哲学・社会学etc…など学問は大学教授や活かせる職場な人だけ学べばいいという立場です。専門家に任せることが一番と考えるなら、公共性の主題「討議」に必要性は凝縮されます。この立場の人がいてもいっこうに構いません。当日は「エリートに任せられないから公共性が必要なんだ」という立場を伝え、次に「一部のエリートに任せればいいのだ」という立場両方を説明し議論したいと思います。