今回の議論は公共性の中身についてではなく、「公共性のあり方」についての議論でした。なので公共性は国家の政策としてあってはいけない、公共性は強制装置としてあってはいけないというところに議論が集中しました。
つまり「公共性」は市民の自発的な結社、アソシエーションとしては認めるということは合意がえれました。ハーバーマスの参照とする17・18世紀のコーヒーハウスもそのような形で公共性が実現されていました。また政治的無関心を是正するため政治的関心を引き起こす市民を育成する教育はやってもいいという合意も得れました。
「公共性はあってもいい」という主張と、「公共性は重要だ」という主張は論点が異なります。前者が自発的欲求を重要視するのに対し、後者は理性的であるという民主主義社会に重点を置いています。個人あっての社会なのか、社会あっての個人なのか、Intoroductionに戻りますがここを分けるのが社会学の永遠のテーマでもあるわけです。
最後になりますが昨今流行りの政治哲学も哲学の内容についてではなく、哲学のありかた(哲学の政治的な意味)についての議論です。そして情報社会学で言われる「アーキテクチャ」という観念もこの価値観に多くの変化を与えたと思います。自分がどのような価値観を持っているのか、それは本当に自分で得たものなのか、そして社会的にはどのような価値が重要視されたほうがいいのか、このような少し抽象的な議論に興味を持っていただけたら私としては幸いです。
では御精読ありがとうございました。