少しだけ余裕が出来たのでログインしてみました。キーボードのペアリングがうまく行かなくて20分も時間を費やしてしまいました。

 

前のページは、父が入院した一年後に書いていたのです。それは、一年遅れで記録を確認しながらブログにしようと思ったからですが、結局時間ができなくて続けることができませんでした。

 

父は日記をつけてませんでした。私も旅行の日記はありますが、日々の日記は父が入院するまではつけていませんでした。入院してからの日記は、レコーダーにあります。それは私の宝です。

 

他に伝えたいことは病院への不信があります。それはたった一度しかない看取りができなかったことです。あれほど雑な行為がされていたとは夢にも思ってなかったので、今思えばもっと私がしっかりしていればちゃんとした看取りができたと、とても悔やむ日々です。そしてこの後悔は一生終わることは無いように思っています。

 

その時の私は、誰にも、そう家族にさえも助けられることがなかったですし、今でもそうですが、それどころか私をどん底へ落とすような攻撃的言動が幾つもありました。それは父が亡くなってからも、今でも続いていますが、そんな状況の中で私はほぼ2ヶ月、父の入院中は、精一杯やっていたつもりでした。

 

しかし今になって思い起こせば、どんなに嫌がられても病院や担当医師に強く訴えるべきだったと猛省するばかりです。結局、想定外のことですが、私は医師や看護師に舐められていた。つまりプロとしての巧みさに騙されていたわけです。

 

今いるこの家は私が小学生 になったころ父が建てられました。今となってはとても古く小さいですが、住み慣れた愛着のある家で父の遺産であり形見でもあります。大きな遺品は数少ないですが、中小の遺品は高価なものはありませんが、沢山あってどれも父の姿を思い浮かべることができる宝です。私が至らないばかりにきっと父は日々孤独だったと思います。本当に気づくのが遅すぎました。幼い頃には、仕事に忙しくて疲れていたのに、遊園地や動物園、東京タワーにも連れて行ってくれて、力持ちでたくましかったのですが、亡くなる時の父は骨と皮だけに痩せ細っていました。長年私は何のお返しも出来ないまま、最後の病院に面会に行くだけで精一杯でした。そんな私に「会いたいから …」と言ってくれた父の言葉は今でも消えない木霊になっています。

 

 

水曜日だった。

初めは、火曜日に入院のつもりだったが、大丈夫そうだったので行かなかった。

しかし翌日の11時近くになって辛いので連れて行って欲しいと。その時から生活が一変する。

 

 

 

 

今日、茄子の苗の周りに藁を敷いた。父がやったように。藁は父が残して置いてくれたもの。家で作った米の藁かどうかは分からない。11年以上、米作りをしてないから。一緒に稲苗を作ったり、田植えしたり、稲刈りをした日々を思う。

 

こうして父の残してくれた畑で、父と同じようなことをしていると、いつもの声が聞こえているような気がするけど、その姿もなく記憶が反芻されるばかり。でも何故か安堵する。

 

今日は久々に晴れた。住み慣れた庭から見えた少しオレンジ色がかった月に、あの日を思い出す。満月は少し過ぎていたようだけど。過ぎた時の厚みは言葉にできないまま。だから遠ざからないで欲しい。

父が亡くなって、と言うよりも入院してからだと思う。母と兄の態度が変わった。同居している母は特に変わった。いや、私が正体を知らなかっただけなのかもしれない。母が私にも先祖にも亡くなったばかりの父に対しても、昔、この家に嫁に来た時の批判と愚痴を繰り返すようになった。祖母のこともずっと以前に父に時々グチグチと当たっていたことを父から聞いていたが、今度は父の代わりに私に当ててくる有様。母はこの家系を破壊したいのだろう。母の実家はとっくに母の兄によって破壊され空き家になっている状態だ。

 

こうなると母親ではなく、超意地悪な糞ババアでしかない。結局、父が無くなり私の味方は居なくなってしまった。父が母のことを落武者の家系だと言っていた。昨年、入院中に「結婚に失敗した」とつぶやいた意味が分かったような気がした。そして入院中は私としか面会をしなかった。その本当の意味を私はまだはっきりとは分からないままである。と思うのは、この家にはまだ私の知らないことがあるように思えるから。

 

父が亡くなってから約7ヶ月が過ぎて、やっとこうしてブログが書けるようになった。テレビが見えるようになったのは、ロシアの軍事侵攻が始まったころから。以前は、朝にTBSラジオを聞くのが日課だったが、すっかりそんな余裕も無いまま。家族に攻撃されながら、父のやっていた仕事の他に家事と相続の手続きなどで心身ともに余裕の無い毎日が続いていたから。でもまだ出口は見えて来ないようだ。