Dear,1984 年の僕 / b-flower | clover chronicles Ⅱ

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Dear,1984 年の僕 / b-flower
         ミニアルバム「Clover Chronicles 1」


11月ですね。
このブログを始めてから1ヶ月半、
いろんな人から久しぶりに連絡をもらったり、
手紙をもらったりします。

手紙と言えば・・・

この季節になると毎年のように思い出してしまう
とてもやっかいな自作曲があります。

今日はちょっと長くなります。


このブログタイトルは Clover Chronicles 2ですが、
2と言うからには1があるわけで、94年にリリースした
そのミニアルバムには、この「Dear、1984年の僕」という曲が入ってます。

曲を知ってる人は少ないと思うので歌詞載せちゃいますね。



Dear,1984 年の僕

親愛なる僕よ 元気かい
このところ めっきりと寒くなったね
僕は今 週に8日働いてて

長いこと君のことも忘れてた

君にあいたくて 僕は手紙を書く

晴れた日曜の朝に ポストに出しに行こう


親愛なる僕よ 許してほしい
少しずつ 風向きが悪くなってる
もう君の顔も 思い出せないよ

時々は 声くらい聞かせてよ

地下鉄が延びて ほんの近くまで来た

時は流れに流れて 変わるべき時が来た


何度出してみても この部屋に届く

あの頃の僕は今の僕とは違うのに
それでも
君にあいたくて 僕は手紙を書く
晴れた日曜の朝に ポストに出しに行こう



音楽を伴わないとイメージしづらい歌詞というのもありますが、
この詞は比較的 言葉だけでわかり易い詞だと思います。
(自作曲を言葉で解説するのは好きではありませんが、
 今日はまあ、なんかそういう気分なんでいろいろ書いちゃいます。)


年月を経るうちに何か大切なものを失ってしまった「現在の僕」が、
「以前の僕=1984年の僕」に会いたくて手紙を書く。
でもその手紙は「あの頃の僕」には届かず、「現在の僕」の部屋に届く。

「何か大切なもの」を取り戻したくて手紙を書くのだけれど、
もう自分が何を大切に思い、何を失ってしまったのかさえも
わからなくなってしまいつつある。

「変わるべき時が来たのだ」と自分に言い聞かせてみるけれど、
それでもまた「あの頃の僕」に手紙を出してしまう。

そしてその手紙はまた「現在の僕」の部屋に届く。



自分自身に手紙を書くという状況を題材にしたポップソングは
時々見受けられます。
最近ではアンジェラアキさんの「手紙~拝啓15の君へ~」。

過去の「15才の僕」から未来の「僕」へ向けての手紙を読んだ
「未来=(現在)の僕」が、若さゆえに彷徨い悩んでいる
「15才の僕」に 声をかけ励ます。

過去と現在が繋がることにより、
この曲を聴く人は主人公である「僕」の人生を限りなく肯定的に
とらえることができ、そこに毎日前向きに生きようとする自分を投影し、
感情移入し、感動する。
ポップソングとして見事な成り立ちです。


それに比べて僕の書いた曲には「救い」がない。
主人公である「現在の僕」は「あの頃の僕」とまったく
繋がることができない。
主人公の「僕」は本来の自分を見失い、
そもそも本来の自分といえるものが過去に存在したのかどうかも
わからなくなり、彷徨い悩み続ける。

これはやっかいだ。
完結への方向が指し示されていないこの曲では
聴き手どころか作者である僕さえ答えが見えない。

たとえば
「悩んででても仕方ないよ。明日は明日の風が吹く。Take It Easy!」
(こんなこと人に言われかたら殴ってまうやろなぁ)でもなく
「信じて頑張っていれば必ず報われる」でもなく、
「思い悩んでとうとう自殺しちゃいました」でもない。
起承転結の承と転の間で物語が固定されてしまっている。

僕がこの曲の詞に「ハッピーエンド」や「人生応援」や
「悲劇的な結末」を用意しなかったがためなのか、
今でも毎年のようにこの時期「で、今はどうなの?」と
この曲からの問いかけのメッセージを受け取ることになります。

1989年に作ったこの曲。

年数を重ねるたびにそれは「で、今はどうなの?」から
「そんなんでいいの?」に変わってきているのを感じます。
僕はこの10年近く、そのメッセージを開封さえせずに
ゴミ箱に入れ続けていたような気がします。