CLOUDNOTE-雲の旋律-

WOWOW連続ドラマ【下町ロケット】特設サイト

WOWOWで現在放送中の連続ドラマ【下町ロケット】に要注目である。

この【下町ロケット】は作家の池井戸潤氏の原作となる同名の小説があり、それが直木賞を受賞している事から名前くらいは聞いた事がある方も多いかもしれない。
ただ、ドラマを制作している時はまだ受賞はしていなかった為、ネームバリューで作られたモノではないと言えるだろう。

この物語は、下町の技術力は一流だが経営は苦しい町工場が作った、それが無ければ飛ばないと言われているロケットエンジンのバルブの特許を掛けて大企業や超巨大企業との熱い戦いを描いた作品である。町工場の二代目社長は元技術者、研究者としての夢であるロケットエンジンの開発への思いと、社長としての部下や家族を守る立場との葛藤でもがきながら前に進んでいく群像劇である。ただし物語は全体的に非常に分かりやすく、それでいて次回が待ち遠しくなる”丁寧な味付けが爽やかな風味”である。

しかし見所はそれだけではない。宇宙モノがドラマになったというだけで、宇宙好きには堪らないのだが、特許技術の監修にJAXAのロケットエンジン開発グループの職員が付いていたり、ロケもJAXAの筑波宇宙センターの中で行われている等、随所で本物感にこだわっているのが感じられる。筑波宇宙センターの中も敷地内だけで無く、本物のLE-7A(と思われる)ロケットエンジンやフェアリング(ロケットの弾頭部分のカバー)が時折背景に出て来たりするので、見ているだけでワクワクして来る。JAXAとしても”はやぶさ”の成功があった後なので、この様なドラマには精力的に協力しているのだろう。

特設サイトでは俳優のコメントや野口宇宙飛行士との対談など、インタビューが豊富だ。主演の三上博史がサイトで語っている通り、このドラマは人の夢への希望がテーマとなっているので、宇宙モノの割には人間臭さを感じるのだが、宇宙開発そのものが人の夢であり、技術はその思いの結晶なのだという事を感じさせてくれる貴重な作品だと思う。キャストも、作り込みもクオリティは申し分無いので、DVDが出たら永久保存版にしてもいいだろう。大人はもちろん、まだまだ人生の設計図をどう描こうか悩んでいる中学生や高校生にも観て貰いたいと強く思うのである。

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東京スカイツリーを観て来た。
丁度去年の今頃 行って建造途中を撮影したので、同じ様なアングルで撮ってみた。
今回は去年より時間的に早かったので去年より明るく見える。(カメラの違いもあるが)

634m、と聞いてもあまりパッとしないが、実際に見てみるとその巨大さに驚く。
真下で見上げてみると上から覆いかぶさってくるかの様な感覚を受ける。
理屈を知らなくても、この建物の凄さは体感出来るということだ。

横にある横断幕には『上を向いて がんばろう 日本』の文字。
思えば東京タワーの建造は戦後の復興の象徴となっていたと言われていた。
ツリー建造中に起こった東日本大震災。
どんな因果か、
奇しくもそれで東京スカイツリーにも(震災からの)復興という願いが与えられてしまった様な気がする。

どうせならタワーが建てば復興発展する、そんなジンクスを作って名実共に東京タワーを超える塔となって欲しいと思う。しかし完成したら絶対行きたいけどしばらくは混んで行けないだろうな・・・。


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遅れてしまったが、一つ感銘を受けた美術展示があったので感想と共に紹介したいと思う。思う所がかなりあって、まとめ切れているかいささか不安ではあるが・・。


最初の一周は目の前に存在している作品達が自分の想像を遥かに上回っていて、言葉も感覚も麻痺、というかフリーズしてしまったというのが正直な所だった。唖然、とでも言えばいいのか。

けれど、一周が終わる頃になると、また見たくなっている自分が居て、そんな自分に驚いたが、二週目になると、今度は反対に、様々な言葉や感覚が湧き出て来たのに本当に驚いた。

 

彼の作品は、具象彫刻という、世の中に無い物を作品にするのだが、作品のタイトルを列挙すると、Dying slave(瀕死の奴隷)、Hollow(幽霊)、Phantom Limb(幻想肢)、Inferno(地獄)と、ダークな雰囲気満載の作品だ。そしてその表現方法は彫刻家なのではあるが木彫りだったり、毛皮だったり、音映像だったりと幅広く、決して彫刻に囚われていない。それは彫刻を広義に捕らえ、様々な素材を使いながらベストな表現方法を得るという一つ一つの作品そのものへの彼のこだわりの様である。

作品を具体的に言うと引いてしまう方も多いと思うので言いたくない気もするのだが、例えば人の髪の毛で編まれたドレスとか、動物の歯を集めて象ったピストルとか、ピアニストの手の亡霊(この素材は合成FRP)とかである。(勿論、これらは彼の作品のバリエーションのほんの一部に過ぎない。ちなみに上の写真は罪人に着させて海へ漂流させるという木製のスカート。

 

そんな常識外れの作品達を見て、俺は明らかに鼓動が高鳴っていた。それは自分が想像もしていない作品達だったからだが、同時にとても美しかったからだ。それは何て言えばいいのだろう・・・、初めて天体望遠鏡で土星の輪を肉眼で確認した時の様な、現代の俺達では理解出来ない光景を直視してしまった時の様な高揚感。その高揚感が自分の奥底から途方も無いほどの言葉を湧き出させていた。

 

俺は頭がいかれてしまったのだろうか。・・・まあ、おかしな人間だということは認める。

認めるけど、しかし、そもそも感動とは何だろうか。アートに拘らず、美しいものを見ると人は感動する。美しいものは人の心を癒すものだし、美術館に行く目的だろう。

でも、美しいものって何なのだろう。美人はどうして美しいと感じるのだろう。そしてなぜ同じDNAで出来ている人間を嫌うのだろう。毛皮のコートが美しいと思うのに、なぜ剥製は気持ち悪いと感じるのだろう。現実に居たら怖いと感じるはずなのに、神話や星座の物語はどうしてあれほど素晴らしい想像力で書き記され、今日まで語り継がれたのだろう。

常識や、非常識。理論、理屈。

そこに、本当の理由なんてあるのだろうか。

感動とは、心が何かを感じ取る行為。頭ではなく、心で素直に受け取った時、人は感動する。好きになったり、嫌いになったり、気持ち良かったり、気持ち悪かったり、平穏になったり、不穏になったり。それは喜怒哀楽に似ている。


気分が良い、気味が悪い。それは一見、感動とは関係の無いように思えるけど、心が受け取るものとしては同じベクトルにあるものだと言える。いろいろな感じ方が出来るのが人間だし、その上に常識や理論が存在するのが人間だ。

文明が発達し俺達の身の回りにはモノで溢れかえり、食料が不足する事も無い。つまり何も疑問を持たなくても既製品を買えば良いし、食料になった失われた命を実感することも無い。しかしそれは人間としての思考力や想像力を失わせる事でもある。また、俺達は一般常識とか、社会のルールやマナーを活用して現代を生きている。しかし知らない間にそれらに縛られて、自由な思考や感覚が(出来)なくなってしまっていないだろうか。

例えば麻酔を行うとその部位を負傷しても痛みを感じないから傷ついた事に気付かない。痛覚があるからこそ自分の身体を守れるのである。実はそういう感覚を失う事こそが人として最も恐ろしい事かも知れない。

 

そういう意味で、小谷元彦の作品を見ると様々な感覚を呼び起こされて、荒みやすい現代人の、ある意味原始的な、それでいて最も鋭敏な感覚が刺激されるのである。作者のアートに対する自由で屈託の無い想像力が、禁断の領域を犯してしまったかのような奇抜な作品達を製作させ、見る人に違和感を与えつつも、抗いがたい純粋な美しさが目を奪い、そしてその奥にある意図に気づいた時には更なる感動を与えるのである。そして俺達が普段どれほど小さな尺度で物事を見ていたか、自分や周りから勝手に決められた常識に流されて物事を見ていたかに気づかされ、知らぬ間にわだかまっていた理屈や常識から見事に心が開放されるのである。


 

それはつまり、個人が本来持っている自由な心=現代という身体から抜け出た精神=幽体の知覚と言えるのではないだろうか。