2ヶ月ほど前、とある居酒屋の外でイタリア人の留学生と話をした。ヴェネチアから来た女の子で、美しい日本語を話す。日本の宗教を勉強中なのだという。仏教かと思いきや、神道であった。海外の人で神道に関心を持っている人は初めてであったし、新鮮な驚きだった。彼女は、仏教という新しい外来の宗教を受容した後も、古代の自然崇拝である神道が今なお日本に残っていることに純粋に驚き、探求したくなったのだそうだ。日本人の自分としては、日本で仏教が神道とともに争いなく共存していることにほとんど疑問を感じない。寺院のとなりに神社があっても、それは自然な風景の一部として難なくとらえることができる。それは何故だろうか。日本人の素直さ-あるがままにすべてを受け入れる-こころがそうさせていると言ってしまえばそこまでだが、そこには日本人の精神性や民族的気質といったものが背後にはたらいていることは疑い得ない。カミも仏も、日本人には「ありがたい」存在なのだ。このありがたいという言葉は、英語に翻訳不可能である。すくなくとも今の私には。かくして古代の信仰である神道は今日もなお命脈を保っている。
ところがイタリアでは、キリスト教という一神教がやってきて以来、古代の自然宗教はほぼ完全に消え去ってしまった。石や、水や、風や、木が神(spirit)であった時代は過去のものとなり、天にいます絶対者としての神(deus)が一切の力のみなもととなり、また一切の帰結していく存在となった。なぜ、ヨーロッパにおいて汎神教は消えていったのだろう。
この愉しい対話から得るものは多かった。彼女の瞳は、彼女の故郷に流れるヴェネチア川の水のように碧く澄んでいた。ほの暗い杉の森のただ中に、青い光を受けながら、こつぜんと姿を現す古さびた鳥居を見たとき、いったいどのような顔をしたのだろうか。