昨今、「ポリティカルコレクトネス」の名の下に、様々なコンテンツにおいて、ジェンダー、人種、身体的特徴に基づく偏見や差別を極力無くした模範的なロールモデルやキャスティングが採用されるようになった。不妊治療をしていて、ポリティカルコレクトネスの観点から、どこまでの配慮が不妊治療患者に対して払われるべきなのか、ということを最近たまに考える。
家族の形について、特定の在り方を規定するような、例えば「結婚したら子供を持って然るべき」というような考えに基づいた言動は無くすべきだ。もっと言えば、結婚するかどうかでさえ、個人の選択の自由だ。
ただ、この大ポリコレ時代においても、職場や地域のコミュニティなど、ごく一般的な場所で、不妊治療を受けている人間に配慮して、子供や妊娠に関する話題を出すべきではない、というのはおかしいと思う。昔は誰しも子供だった。誰かの妊娠によってこの世に生を受けた。子供は、犬や猫と違って、私たちの延長線上の存在だからだ。子供の産まれなくなった社会は衰退の一途を辿る。日本という沈みかけた巨船も、少子化が進めば進むほど浸水速度は増していく。妊婦も子供も、社会にとって守るべき存在だ。子育てしていることをお互いに共有することができないような社会は、当然、子育てを助け合うこともできない。
一方で、不妊治療患者が、他人の妊娠や子供の存在について、心の中で何を思おうと、全くの自由だ。その感情はその人だけのものであって、良いも悪いもない。
10年くらい前からグローバルで大きなトレンドになり、現在は欠かせないものとして定着している教育の一つに、「感情教育」というものがある。そこで子供たちが教えられる内容は、
「感情に良いも悪いもない。それはあなただけのものであって、他者からジャッジされるようなものではない。心身の調子を崩さないためには、誤魔化さないこと、どんな感情も受け入れてあげること。ただ、感じることと、それを表現することを分けて考えようよ。周りの人間との関係を崩したくないならば、周りの人間が受け入れやすい形で表現しよう。感情自体は自由なものであって、感情の表現は戦略的であるべき。」
この考えに基づいて、まだ言葉の未熟な幼児の頃は、自分の感情を色で表現することから始める。日記帳に今日は何色の感情の日だったか、記すことから始める。
私も、近くもないクリニックに、乗りたくもない混雑した都心の電車に乗って不妊治療に通う道中、妊婦さんを目にして、胸の奥がチクリと痛むことはある。この私の痛みは私だけのものであって、他の誰かにとやかく言われるべきものではない。ただ、その感情の表現として「表に出さない」を選択できれば、それで上出来なんだ。