ひっっさびさの【悪について】シリーズです。
いろんな本を読み、ずーっと考え続けてきたので、たぶん私の中でいい感じに発酵してきたんじゃないかと思います。
ただ、構成とかまったく考えてないので、どうまとめていくかはわかりませんが・・・・。
そろそろひとつのライフワークである【悪について】の続きを書こうかなと思ったのは、2日おきに連載されている「青い算命学」の一文がきっかけでした。
悪事というものは社会生活における秩序の問題であり、宇宙的視野で観れば、善も悪も同次元なのであります。
算命学においても、悪は「地上の秩序の問題」と考えています。
私達が肉体を持って生きているこの地上世界は残念ながら「高次元」ではありません。
だから私たちが生きている途上に悪が存在するのは当たり前のことだし、それが大前提だし、なんなら善悪がなければ地上に生きている意味すらなくなるくらいです。
私たちはきちんと悪を見極めなければならないし、そうでなければ進化していけません。
昨年他界された谷川俊太郎さんも、その有名な詩の一節で私たちに語りかけています。
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
谷川俊太郎『生きる』より抜粋
高次元でないだけではなく、この世界は「マーヤー(幻影)」だとシュタイナーをはじめ、さまざまな文献にも書かれています。
noteからお借りしました。
世界のすべては、マーヤーであるのだ。この不可思議な力は、日本語を当てると「幻力」となる。この世はすべて、ヴィシュヌの見せる幻であるのかもしれない。
その幻影の中で、じゃあなんのために肉体を得ているのか?
肉体を持つことの意味はなんなのか?
それは「善」と「悪」を「認識」する力を獲得し、みずからの力で「善」を選び取り、アダムとイブが楽園から追放されてまで手に入れた「知識」で個我を発達発展させていくため。
その手がかりとして世界中の宗教、哲学、思想などは存在しているわけです。
結局到達する頂上は同じなんですから、別に登り口はどこからでもいいんですよね。
つづく