先日いつもお邪魔しているブログ主さんが、「ひどい母親」というタイトルで書かれていて、なにか不穏なエピソード?と思って読み進めると、「ひどい母親、それはわたし」と続けられていました。
いわば子育て中の、母親である自分と子どもの認識の違いと言ったらいいのかな。
自分ではナチュラルな言動が、はからずも子どもを傷つけていた・・・みたいな。
これ、私も親としてすごくよくわかります。
自分では特段なにも考えてなかったことを子どもはしっかり覚えていたりとか^^;
これって子どもと母親だけじゃなくて、普通の人間関係でもありがちかなとは感じますが、心が柔らかい時の母親とのやりとりや関係って、もっともっと深〜いところに影響を与えるんでしょうね。
私の子ども時代だって、母親からほめられたことももちろん覚えてはいるけど、どちらかと言えば何気ない一言がずーーーーーっと心に残っていることもあります。
よくインナーチャイルドとか聞くけど、私の場合はふてぶてしいのでそこまではないにしても、6才頃だったか、まだうまく縫い針が使えなかった私に母が何気なく放った「あんた不器用ね〜笑」はそれこそ今でもずっと心に残ってます。
まだ「不器用」の意味もよくわからないながら、それは褒め言葉じゃないということは子どもながらに強く感じたんでしょうね。
でもその後、なにか手先を使う時にうまくいかなくても、「私は不器用だからね」という言い訳にもなって(笑)それはそれでたいした問題にはならなかったんですが、でもこの一言はやっぱり成長するに従って「私はうまくできない」という気持ちに育っていったのかもという気もします。
最近たまに西洋占星術の松村潔先生の「サビアン占星術」を開くことがあるんですが
ここに乙女座、特に私の出生の太陽が位置する乙女座の21〜25度の「第5グループ」についてはこうありました。
(ひとつのサインの30度を1度ずつ分割してシンボルを割り当てているサビアンの中で1〜5度は第1グループ、6〜10度は第2グループと区分けがしてあるのですね。)
「乙女座は(牡羊座から数えて)6番目のサインで、6の数字は要求に対して応える力を意味する」
「基本的に第5グループはいつもやりすぎになる傾向があり」
「特定の業種で確実に実力を発揮した人はやがて強いプライドを持つことになるが、(私の主星牽牛星を思い出します)こうしたプライドからいかに抜け出して自由になれるかということに意味がある」
「自分が本気になればいかなることもできるのだということを確認すれば、そこで手を引く必要がある。」
これね、心のどこかにあった「自分は不器用でうまくできない」というのを、現実で乗り越えていく必要があったってことなのかなと。
実際、あれこれいろんなことをやってきて、その中で「私にできるかな?」→「なんだ、普通にやれるじゃないの」を繰り返してきたんですよね。
私は甲の天干準一気で、しかも石門星✕2。
日干以外は主観的で、そうとう重い自我です。
それを剋してくる庚の母。
これは私と母の相性。
母の日干庚と私の月干と年干の乙が干合すれば、私の石門星は辛・牽牛星に変わります。
これも、意味深ですねえ。
スピ算的に言えば、霊魂レベルで私の牽牛星を目覚めさせるような役割を母が担っているとも考えられます。
神干木性牽牛星には
「その、エネルギー発揮が最も遅い。
自負心、自尊心を持っていても若い時代には表面化し難い。
人生上、心になんらかの傷を受けることによって大きな理想や夢が生まれる特性を持つ。」
という意味があります。
私の心の奥深くに沈んだ、あの母が発した一見薄情な言葉。
あれが私にとってはすごく大切で、私の人生を動かしてくれる一言だったのかも。
人生に必要なことって、その時にはわからないんですよね・・・・。
そして、それは「良い」こととは限らない。
人が成長したり、人生を動かすには「剋」がだいじなんですよねえ。
そう考えると、世のお母さんたち、自分が一生懸命子育てした中で子どもが傷ついたことがあったとしても、それはその子にとっては必要な経験なのかもしれないですよ!
と言いたくなって書いたのがこの記事です(^^)