前回から算命学とシュタイナーを関連付けて考察する、というシリーズに無謀にも着手しました。

 

しばらくは、算命学を考慮せず、シュタイナーがなにを話したのか、ということを少しずつ書いていきます。

 

シュタイナーの言ったことを読む時にいちばん大切なことは、自分の考えでジャッジしないことです。

 

これはありえないことだ、これを信じるなんて宗教みたいなものだ、などと、自分の考えを混ぜ込まず、ただ、そのまま一度受け入れてみるという姿勢が肝要です。

 

 

 

  人間の本質について

 

人間を構成している要素は4つあります。

 

①肉体

②エーテル体

③アストラル体

④自我

 

この4つの要素を理解するための基盤として

 

・動物界

・植物界

・鉱物界

 

というそれぞれ異なった世界がある、という概念を持つことが必要です。

 

 

 

 

 

肉体について

 

肉体は、独立した存在として、宇宙から切り離して考察することができます。

 

ちょうど、現代医学の考え方のように、です。

 

しかし、実際には肉体の中に働く力は宇宙から送られてきています。

 

「肉体はまるで”虹”のように、一定の自然条件から一種の結果として生じた、外部から発生させられた現象」

 

だとシュタイナーは言います。

 

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虹ができるためには一定の太陽光線の拡散、一定の雨雲などが必要とされます。

 

雨雲と太陽光線が虹を形成するのにふさわしい状態になると虹が発生し、この状態が続く間は虹を消し去ることはできません。(薔薇十字会の神智学より)

 

 

肉体を成立させている力の本来の姿はどのようなものなのか、

 

それはどこに存在し、そして肉体はどのように現象しているのか、

 

それを問うのであれば、この物質世界から離れ、超感覚的な世界=霊界・目に見えない精神領域へと上昇する必要があります。

 

 

 

私たちの肉体を、この物質世界に虹のように現象させている力は、極めて高次の霊界に存在しています。

 

しかし、その高次の世界は常に私たちを取り囲んでいるのです。

 

 

 

人間の肉体は鉱物と同じ存在で、鉱物界に属しています。

 

私たちが眠りに落ち、アストラル体が身体を離れると(これに関しては、後日説明します)、身体は鉱物と同じように動きを止め、一種の「死」の状態になるのです。

 

眠っていながら死んでしまわないのは、エーテル体が肉体に浸透しているためです。

 

 

 

私たちの肉体は、鉱物と同じように、その意識を、かなたにある霊界に有しています。

(ここでいう”かなた”とは距離ではなく、それを見る感覚が開かれないと認識できないという意味)

 

鉱物(肉体)の”自我”は、もっとも高次の世界に見出されます。

 

物質的意識を賦与され、高次の霊界に意識を有する肉体を持つことによって、人間は肉体において、上方の霊界からの働きかけを受けているのです。

 

 

私たちが身体を動かす時、高次の世界に存在する、肉体の自我意識が肉体の物質的過程を引き起こしているのです。

 

 

これは、アメリカのホリスティックの医師、トーマス・コーワンの

 

「現在の医学で説明されているような脳内のシナプス・神経細胞の伝達によって身体を動かすのでは間に合わない」

 

という説明に合致すると思います。

 

 

 

 

この本のP212から説明があります。

 

 

肉体のことを考える時にたいせつなのは、私たちが生きている間、常に人生を共にしている私たちの肉体というのは、ただの遺伝子を運ぶ物質ではない、ということを認識することです。

 

たしかに素材としては両親の材料を受け継いでいます。

 

しかし、肉体そのものに関して、いかにこの物質的世界および現代医学の説明とシュタイナーが提起している考察に天と地ほどの違いがあるのか、

 

そして、私たちが人間の真実に目を向けようとした時に、どちらがより的確に、納得できる説明をできるのか、

 

曇りのない目で見ることがとても大切です。

 

 

 

 

以下、余談です。

 

 

 

 

この動画の中でも、上に紹介した本の中でもDrコーワンが言われていますが、シュタイナーは「人類がさらに進化するのにもっとも重要な3つのこと」として

 

1,ひとがお金のために働くのをやめる

2,感覚神経と運動神経に違いがないことを理解する

3,心臓がポンプではないことを理解する

 

を挙げています。

 

今日は最後に、コーワン博士の本の中から、私の気持ちを代弁してくれている一文を抜粋して終わります。

 

 

 

シュタイナーの考え方、世界のとらえかたに触れ、驚きはしたが違和感はなかった。

 

何より、家に帰ってきたような感じがした。

 

ずっと知ってはいたが、初めて明確に表現されたものを見たような気がした。