ツイッターで誰かの「無から有を生むのではなく、カオスから有を生むのだ」というつぶやきを読んで、確かにそうかもしれない、と思った。

 

真空を満たす有象無象の中から、あるいはアカシャ年代記から、自分の波長に共振するものを取り出して形にする、物質化する、ということなのかもねと。

 

 

この能力はだれにでも備わっているものではないのですな。

 

 

私などはいい例で、小さい頃から絵を描くのが好きで、周りの子よりはちょっとだけうまいんじゃないかと自惚れていたけど、絵を描く宿題が出されたときなど特になにも思い浮かばず、本の挿絵(抽象画)を模写して出したり、ぬいぐるみや果物を並べて静物画を描いたりしていた。

 

 

私の描いた、というか模写した抽象画を見て、風景画を提出していたクラスメートが「これは絵じゃない」と言い、担任のキムラ先生が「こういう絵もあるのです。アブストラクトと言うんだよ」と答えてくれて、私は一言も発せずに済んだことがある。

 

ちなみにこの時模写したのは、大好きだったメーテルリンクの「青い鳥」の挿絵。

 

 

 

忘れもしない、この絵。
 

 

 

「時」の番人。

この絵もとても好きで、どちらを描くか悩んだ記憶が・・・・

 

 

小学館の「少年少女世界の名作」シリーズ「フランス編」に編纂されていて、挿絵は司修(つかさしゅう)さんの油絵。贅沢だなあ・・・。

 

 

 

 

キムラ先生は海の近くに住んでいた小学校6年時、一年間だけの担任だった優しく懐の深い方で、この先生と過ごした時期のことはたくさんの場面を思い出せる。

 

そういえば一ヶ月に一回、キムラ先生が詩を書き写して教室の壁に貼ってくれていた。

 

とても美しい字を書かれていたことが子どもごころにも印象的だった。

 

今でも生き生きと思い出されるのが村野四郎の「鹿」。

 

 

鹿

 

鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた

 

彼は知っていた
小さい額が狙われているのを

 

けれども 彼に
どうすることが出来ただろう

 

彼は すんなり立って
村の方を見ていた

 

生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして

 

 

小さい頃から動物への共感が強かったせいか、この詩は鮮烈に私の心を捉えた。

 

特に最後の3行からは言葉で説明できないくらいの衝撃を受け、読みながらいても立ってもいられないくらいの悲しみを感じたことを今でも覚えている。

 

これを読んですぐにキムラ先生のところに行き、「どうして鹿は逃げないの?」と聞いた。

 

「鹿は足が速いんだから急いで逃げたら弾に当たらないかもしれないのに」

 

 

 

この詩を読んだ6年生時は気づかなかったけど、どこにも鉄砲なんて書いてない。

 

でも、私にも遠くの木々の間から若い鹿に猟銃で狙いを定める猟師の姿と、彼と鹿の周りをとりまく静謐な空気がはっきりと感じられていた。

 

詩人の、カオスから有を取り出し言葉に紡ぎあげる能力・・・。

 

 

 

50を過ぎた今は、この詩の命の深みがより感じられる。

 

こんな素晴らしい世界に解釈はいらないと思うし、自分の言葉や考えを足すこともなくただただ美しいと思う。

 

評論家なんて仕事は私にはとてもできないだろうな。

 

 

 

残念ながら、私の質問にキムラ先生がなんて答えてくれたのか覚えていない。

 

おそらくあの時の私が納得出来る答えじゃなかったんでしょう。

 

今なら共感出来るかも知れないのに、せっかく説明してくださった言葉を思い出せないのが惜しい。

 

 

 

そういえば、あの頃まだキムラ先生は29才くらいだったから、現在70過ぎくらい。

 

訪ねていって、もう一度お聞きしてみたい気もする。

 

先生、あの時の説明をもう一度お聞かせくださいと。

 

 

まるで、映画のワンシーンのようではないですか?笑