小山田圭吾さんの話題が出てきた時、師匠だったらどう読まれるのかな、と考えていたら思いが通じた?かのように算命日記(7月20日)に取り上げてありました。

 

ちょっと長くなりますが、引用させていただきます。

 

 

主犯と思える牽牛星+調舒星。ここで使っている二連は、算命学二連をまとめる時に、"靑"流オリジナルをブレンドしているので、教科書通りではありません。

牽牛星調舒星は、激剋関係で調舒星が牽牛星を打ちます。牽牛星は役割意識ですが、それを個人感情でやってしまうということで、「自分の大義」が作られます。

本来大義は、自分とは別にやるべきこととしてそこにあるものですが、
自分の気持ちが大義(行動を起こすための正当な理由)を作って、それに従うことによって大義を果しているような気持になるという作用が起こります。

自分基準の行動原理と社会基準の正当理由とが合体して、自分のやりたいことが社会的にも認められた正当なやるべきことにすり替わります。

今回の場合はいじめを大義としているわけではありません。
自分の大義の中の一プロセスとして語っているところがこの構造です。


『今はこんなに立派になりましたが、昔はこんなこともやっていたんですよ、ははは』

 

たぶんこんなニュアンスだったのではと想像できます。

こんなひどいことをしていても、こんな立派になれるのですよという自己認識を作ります。

算命学的な推論ですが、これのみならず、主観星の組み合わせにはこうしたリスクはあります。
自分にとっての自然な感情や行為(主観)は、反省や改善の対象になりにくいものです。

これは善悪ではなく、だからこそできることがあるってことです。
主観星の連結は本当に大義を成し遂げる原動力になることも確かなので、
星の組み合わせがこうした人を作るわけではありません。

 

この宿命は才能豊かで、スポーツや創造的な仕事に向いています。
決して、この宿命が今の小山田さんを作っているわけではありません。
副作用。だから、この宿命だからこうなったというだけの解説は不可です。

結局のところ、「天網恢々疎にして漏らさず」という老子の教えはその通りなのでしょう。
それは勧善懲悪ということではなく、自然調和(運命算数)に近い天の理なのだと思うのです。

 

ほんの一部分を引用させていただきました。

 

いつものことながら、すごいなあ・・・・と感嘆してしまう解釈でした。

 

 

読みながら思ったのは、人の宿命を読む時にいちばん必要なのは、もちろん技術も、なのでしょうが、自分の「主観」「好き嫌い」「思い込み」を排除して、広い見地から公正に判断する経験値、というか、そういうベースなのだろうな、と。

 

これはとても難しいことだと思うのです。

客観100%だからこそできるのかな、と思ってみたり・・・・。

 

でも主観を多く持っていても、それをコントロールできれば可能なのでしょうね。

 

 

 

私は西洋占星術はさっぱりわからないのですが、興味だけはあってこの方のブログをいつも読んでいます。

 

 

ちょうどこの工藤先生も小山田圭吾さんを取り上げられていて、師匠の解釈を読んだ後だったのでどう書かれているのか興味津々で読みました。

 

一部分、引用させていただきます。

 

おそらく、小山田氏にとって「子供時代のいじめ」は「過去のエピソードにすぎない」、そのような”感覚”があったのではないでしょうか。誤解しないでいただきたいのですが、水瓶座が過去の自分の過ちを心情的に反省しないといっているのではありません。反省はするのです(小山田氏も今はしていると思います)。けれど、彼に壮絶ないじめを受けた人たちの心の傷は謝罪によって無くなるわけではないという事実に対する真の理解を欠いていた、そのように思われるのです。

 

ここに「星座のタイプ」という問題があります。水瓶座の「知」は「心情の共有」を必要としません。人が苦しめば「人間共通の体験」と理解し、同情もしますが、一緒に泣き、一緒に酔いつぶれるということはしません。それは「知の営み」ではないからです。こうした知的傾向を持つ水瓶座は「人と一定の、適切な距離」を保ちます。それは政治的に表現すれば「連帯するため」です。連帯するためには「それぞれに知の独立」がなくてはならないのです。相互の同情だけでは「知の連帯」ができません。

 

(中略)

 

どの星座に対しても「〇〇座だからこうだ」と中傷してはなりません。

 

小山田圭吾氏の水瓶座は、少なくとも、小中学校時代には「人の苦しみに無頓着で、人の悲しみを考えない、未発達な劣悪な水瓶座」でした。発達した、優秀な水瓶座は、人の話しをよく聞き、何を成すべきか、冷静な知性で考えようとする「誠実さ」を持っているものです。

 

 

ベースになる技術は違えども、経験豊富なおふたりのおっしゃっていることはほぼ異口同音に思えました。

 

 

おふたりの鑑定を読みながら、人間としての厚さ、というかそこに鑑定士の「自我」を感じさせない、哲学のような味わいがあるなあと。

 

 

”靑”流算命学の勉強を始めた時、さまざまな価値観の転換がありました。

それは今も続いています。

 

 

人の鑑定をするためにまず必要なこと、それは自我を削ぐこと。

 

人のありようを、自分が持って生まれ、日常の中で育ててきた固定的な価値観で判断するのではなく、もっと大きくてフラットな土台に立って俯瞰すること。

 

そのためには占いの技術も含め、自分の見聞や内的世界も広げなければいけない。

世の中には自分が知らないことのほうが多いのですから。

 

 

ベテランお二人のことばを読みながらしみじみ思ったことでした。