先日、NHKの「事件記者/取材note」というサイトを見ていたら「兜町の風雲児の最期」とあり、その昔、投資、相場の世界で巨万の富を築いた中江滋樹氏が取り上げられていました。
私にはなんの関係もない世界でしたが、当時テレビでこの人が出している投資情報専門誌「月刊投資家」のCMが頻繁に流れていたのを覚えています。
昨年2月、アパートの火事で亡くなったそうなのですが、この記事を読んでいるうちに、どんな人だったのか興味が湧きました。
経歴
父親が証券会社の社員だった関係で小学5年くらいから株取引開始。
1972年(18才)大学進学せず証券会社でチャートを黒板に書くバイトを始める。
1978年(24才)「投資ジャーナル」社設立(年運天中殺)
1985年(31才)投資家たちから集めた資金を返しきれず、警視庁に詐欺容疑で逮捕される。
1989年(35才)6年の実刑判決。3年後に仮釈放。
その後は表舞台から姿を消し、死亡説も一時期流れた。
10気すべてを揃えた宿命。
もっと前に出る気が多い人かと思っていたのですが、そうではありませんでした。
陰占で見ると、年支本元にいる大きな自分丙が起点になっています。
そのすぐ隣りの月支本元にいる父親から影響を受けてスタートした早い仕事人生。
日干は丁亥、天報星、異常干支。
「感受性(カン)が鋭い。人のためになって、なおかつ利益追求になる仕事が吉。」
「霊感に近い直感力があって、混迷の時代を切り抜ける判断力が生まれる。」
年支30癸巳も直下の戊と干合する異常干支ですね。
天干の龍高星車騎星の二連↑
これも私心なく役割を果たす能力。
『中江は、単に目先のカネを稼ぐだけではなく、先々のことも見据えて人脈を作ることに、特に力を入れていた。
「1日に何回も社員を集めて話をするんだけど、そのたびにいろんな幅広い話をする。その話の1つ1つが社員の心を打つんだよね。演出かもしれないが、人の心をつかむのが本当にうまい男でしたよ」』(取材noteより抜粋)
月支年支、本元と中元の二連↑
いくら持って生まれた才能とは言え、まだこの頃20代、すごいですね。
気グラフです。
人生でいちばん活躍した時期は、1〜2旬の日干丁の死地から次の3旬半ばまで。
その間、洪水のように青の車騎星(癸)と牽牛星(壬)がそれほど強くない自分(赤)を高い位置から剋しています。
彼を突き動かしていた原動力はこれだったのでしょう。
逮捕された1985年あたりからそれまで独走状態だった青がガクンと下がり、上昇してきた他の気と混濁。
明らかに流れが変わります。
事件記者の取材noteには証券界のベテランの見解が載せられています。
『証券アナリスト 植木靖男さん
「中江さんに、そこまで相場を読む力はなかったと思いますよ。まだ規制も今より厳しくなく、資金さえあれば株価なんてある程度は操作できる時代だったんです。とにかく資金さえ集めれば、いくらでも相場を作ることができますから」
「相場を読むのが上手だったんじゃなくて、狙った株の価格をつり上げて相場を作っていたのではないでしょうか」』
この方はこう言われていますが、相場についてまったく知識がない私ですからなんとも言えませんが、時代の寵児として活躍していた頃は、異常干支でもある日干「丁亥」の持って生まれたカンの良い自我が多大な車騎星に打たれて空になったところに天からインスピレーションが降りてきて相場の先読みをすることが可能になっていた時期だったのかもしれない、とも思えます。
先読みなのか、カリスマ的魅力(天剋地冲)だったのかはわからないけれど、一種の「神がかり」的な時期だったのかも。
『「大衆投資家にロマンを」などといったうたい文句で宣伝し、資金は次々に集まったが、株価はなかなか伸びない。
それどころか、「中江の扱う株は危険だ」という噂が流れ、しばらくすると買っていた株が軒並み暴落してしまう。』
神干火性鳳閣星には
「火付け役(最初に物事を動かす中心人物となり得る)。
一度発せられた情報は無限の広がりを持ち、自分が発した言葉は修正が効かなくなる
(自分が発したものに責任が持てなくなる状況を生み出しやすい)。
活動が激し過ぎると情報の乱発、拡散を招き混乱を生むこともある。」
という意味があります。
こういう流れになることも宿命に織り込み済み、ということでしょうか。
2013年からアメブロにブログを始めて、自分の経歴も書かれています。
ブログで相場についての情報発信をするつもりだったようですが、数回で終わっています。
内容からは多くの政治家ともパイプがあった様子が伺えます。
有料記事なので内容は読んでいませんが、日刊ゲンダイDIGITALには、政治家の実名も出したコラムが亡くなる数ヶ月まで毎週連載されていたようです。
この人が情報を出すことで困る人もいたのかも・・・・・・。
「全盛期は29〜30歳頃。当時は体をブルッと揺すれば10億円くらいは簡単に出てきました。銀座の飲み代は一晩数百万円。愛人も10人くらいいましたし、六本木や赤坂に複数のクラブ、割烹、喫茶店を持っていた。何人もの政治家とも付き合いがあって、500万、1000万円単位で小遣いをやっていました。ただ、内心はビビリながら生きていたんですよ。証券取引法からいうと私のやっていることは灰色だな、と思っていましたから」
「今、おカネはほとんどありません。そりゃあ愛人や社員がいたほうがもっと楽しいだろうけど、それは私にとってはさほど大きな部分ではない。相場を研究できれば満足なんです」
選んだのがこういう世界でなかったらきっとまだ生きていられたんじゃないのかな、とふと思いましたが好きなことをして生き、最期はどうであったとしても役割を果たした人生だったのか、と感じました。