『Innocence 【純真】』 (序ノ完) | My life with 『The OTO』。

『Innocence 【純真】』 (序ノ完)

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傀儡謡 [Innocence]



『傀儡謡 怨恨みて散る』


一日一夜(ひとひ ひとよ)に 月は照らずとも
悲傷(かな)しみに 鵺鳥 鳴く
吾がかへり見すれど
花は散りぬべし
慰(なぐさ)むる心は
消(け)ぬるがごとく

新世(あらたよ)に 神集(かむつど)いて
夜は明け
鵺鳥 鳴く

咲く花は
神に祈(こ)ひ 祷(の)む
生ける世に
我(あ)が身悲しも
夢(いめ)は 消(け)ぬ
怨恨(うら)みて 散る


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『傀儡謡 陽炎は黄泉に待たむと』


陽炎(かぎろひ)は
黄泉に待たむと

陽炎は
黄泉に待たむと

咲く花は
神に祈ひ 祷む
生ける世に
我が身悲しも
夢は 消ぬ
怨恨みて 散る

怨恨みて 散る

百夜(ももよ)の悲しき
常闇(とこやみ)に
卵(かのこ)の来生(こむよ)を
統神(すめかみ)に 祈(の)む





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…以下は、

あくまでもRemの個人的独断による解釈と
読み取り方と捉え方である。

↓↓↓
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【Remの個人的読解と考察による意訳。】


毎日、毎夜ごと、
たとえ月が照ることのない暗い夜の日でも、
悲しみに暮れている夜の鳥は
いつも絶えず毎夜 鳴いている

たとえ私が振り返り、たとえ顧みたとしても、
花(命)は(無常にも) やがて散っていってしまう

それはまるで、
せめてもの慰めになるものさえが、
はかなく無残に(闇へと)かき消えてしまいそうになる様のように


新しく明けていく世界
あまたの光が徐々に集まってゆく
そして夜は明け、
夜の鳥は 驚嘆の鳴き声を上げる


咲く花たち(生きとし生ける命たち)は
神にも祈りすがるような想いで渇望する

自分が生きているこの世のなかで
自分の身に降りかかる運命に いくら悲しみ暮れても暮れ抜いても、
渇望しているその夢は、
それでも それでも消えてゆかない


その宿命(さだめ)をどれだけうらめしく思っても、
それでもいつしか
やがては すべてが 無常にも散り果ててゆく



陽炎のような煌めき温かい光や救いは
自分が死ねばその先にあるのではないかと、

もう死ぬよりほかには 自分に救いの光は無いのか、と
(そうして生への諦念を抱く)


咲く花たち(生きとし生ける命たち)は
神にも祈りすがるような想いで渇望してしまう

自分が生きているこの世のなかで
自分の身に降りかかる運命に いくら悲しみ暮れても暮れ抜いても、
渇望しているその夢は、
それでも それでも消えてゆかない


その宿命(さだめ)を どれだけうらめしく思っても、
それでもいつしか
やがては すべてが散り果ててゆく


それを恨むほどに 切に 切に望んでも、
それでもやがては
やがてすべては 無常にも散り果ててゆく


幾百にも続く永き夜の 深く永い悲しみの闇のなかで、
卵の来生(新しく生まれ変わる『再生』)を

もしもこの世の全てを統べる存在が居たならば、
それを成就させてくれ、と 切に祈り 願い 止まぬ。



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ヒトという生き物は……否、

すべての生きとし生けるものは皆、

まるで、
その自らの生という名のそれぞれの舞台の上で、
その己の運命という見えない糸に手足を縛られ、
その運命という見えない糸によって操られている人形のようだ。

己の意思や思惑とは裏腹に、
その見えない糸に操られ、幾多あまたに多様に踊らされ、
そしてその見えない糸に翻弄される。

見えない糸に踊らされている人形でも、
何度も何度も操られ翻弄されながら踊っていれば、
その糸に縛られ課されていたその境遇のなかででも、

やがて「自らの意志で舞いたい」と そう思うようになるだろう。


囚われ操られていたその傀儡(あやつり人形)は、

いつしかその内に 深い慟哭と渇望を抱く。

そしていつしか、その空虚な己のなかの空胴のなかにも

『震える魂』がひとつあることを 己の内に見出す。


そしてその震える魂の慟哭のなかで、

『こころ』と 『命』の はかなさを知って 識る。


傀儡は、
囚われ縛り付けられていたその見えない糸のなかで
もがき足掻きながら踊る。

そうして もがき 足掻きながらも、
その見えない糸を断ち切り解き放たれることを渇望し 抗う。

傀儡は永い時を経て もがき足掻き続け 抗い続けながら、
いつしかその見えない糸を 断ち切る。

その行為がたとえ、
“いままでの自分”という、
かつてのそれまでの自らの存在意義すら絶つことになると判っていたとしても。



『こころ』 を得た“人形【ひとがた】”は

 そこでひとたび、死して消滅する。


そうして “人形という形骸”は 死して消滅し、

そうして かつて操りの傀儡だったその人形は


『こころ』 を得て 『命』を知り、『魂』を得る。



そうして 傀儡(操り人形)は、

喜怒哀楽を知る ひとつの “個 【個性】”を有した、

ひとりの 『にんげん』 へと 再生する。



闇の奥底で 再構成される肉体と云う“形”を、
その『命【魂】』がまた、ひとつの今生の姿として纏う。

新しいその生という『光』へと臨みながら。


その臨みの想いを抱き、
ゆっくりと自身の形が再構築されてゆく羊水のなかで、

その“光を自らに与えられ、光を自らにも有することになるから故に”、
皮肉にも己の身が
その有し与えられた光に焦がされ、焼かれる矛盾があるかもしれないこと、

それを自分で自覚し知っていて、
それに未だ恐れながら少し震えたとしても、

それでも、

かつての人形は その新しい再生に臨むことを止めない。


そうして かつての人形は光の皮膚に包まれ纏われながら、

その 『生』へと向かって

 『命』 を “再生” してゆく。


 Pray、

 Play、


 Pray player。

 Play prayer。



傀儡謡 怨恨みて散る(『イノセンス』 OP)



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「猛禽類」とは、猛獣(ライオン、トラ、オオカミ)などの「猛き獣」のことを差す。

「禽」とは、『けもの』のことを差している言葉。

「百禽」とは、『幾多あまたの生き物』のことを差していると想う。

(この中にはもちろん人間も指し含まれている。
人間も、ただ高い知能をたまたま有している『生き物』のひとつに過ぎない存在なのだから)


あくまでも俺の個人的な見解の上で、
俺は、
「百禽」とは、
『あまた全ての生きとし生ける生命』を指し示している、と想う。


…このオトを先日見つけることができてから、
それから何度も何度も繰り返してこのオトを聴いている。

その度に、何度も何度も胸の奥が打ち震えて、
何度も何度も 心が慟哭して震えて泣いた。
そうしてまたこのオトからも、
あったかくも激しくも優しくも、力強いエナジーを分け与えてもらえた気がする。

…それはまるで、
「お前はお前のままで、それでなにも間違っていないよ。」と、
「お前が信じて生き続けてきたその『想い』は、間違いではなかったんだよ。」と、
優しく大きなそんな心で、このオトに俺は抱きしめてもらったような気がしてる。


『けだもの』と 『ケモノ』は、まったく別の生き物だ。

俺は、
今までどんなになってても、これからだってどんなになったとしても、
ずっといつだって『ケモノ』で在り続けたい。
そうしていつしか、『誇り高きケモノ』に成れるようになりたい。

俺が願い信じ続けていること、望み続けていること、
描き続けて止まないこと、
俺のなかで いつもいつも消えずに冷めない熱と想い。。

「それでもいいんだよ」と、このオトは俺に、
激しくも優しくもそう響き語りかけてくれた…そんな気がする。
「お前は、お前自身で それでいい。それがお前の『命』なのだから。」
と、そう強く勇気づけてもらえた気がする。


 

百禽-Hyakkin




『百禽 (ひゃっきん)』


 命 (みこと)

暁(あかとき)闇に 鳴きし響(とよ)めれば
降(くだ)ちぬ雲は 四方(よも)の国へ
長き命の惜しけくもなしに
長きこの夜を 廻(たもとほ)り


暴風(よこしまかぜ)に
天(あま)飛ぶや風雲(かぜくも)は
畏(け)しきこの夜は
古昔(いにしへ)と別れし時よ


雨は降れど 鳥は吟(うた)ひ
風は吹けど 花は咲く
清き月夜
霞流るる天(あめ)へ行かば
畏(かしこ)きを眺(み)ゆ


雷神(なるかみ) 光動(とよ)みて
天伝(あまつた)ひ 来る
百鳥(ももとり)は 生ける世に
悲別(わかれ)の散り飛ぶを見つつ

荒墟(あれた)る 悲傷(かな)しみ
逆風(あらきかぜ)吹く
この世の中を 憂(う)しと思ひて
天降(あも)り 座(いま)し
神に仰(あふ)ぎ
祈(こ)ひ 祷(の)む


天(あま)照る月 雲は流れ
鎮めたまふ御心
翻(と)び 翔(かけ)る 百鳥(ももとり)の
鳴き響(とよ)むる 感悦(よろこ)び
絶ゆることなく
黄泉(よみ)の境に 誘(いざな)ひ賜ひて
この夜は明け
千万(ちよろづ)神の
懽(よろこ)びの御歌(みうた)
響(とよ)む


天照る月 雲は流れ
鎮めたまふ御心

翻び 翔る 百鳥の
鳴き響むる 感悦び

絶ゆることなく
黄泉の境に 誘ひ賜ひて

この夜は明け
千万神の

懽びの御歌
響む


絶ゆることなく
黄泉の境に 誘ひ賜ひて

この夜は明け
千万神の

懽びの御歌

 響む





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オトは すべての 『命』 のなかに 常に鳴り、そして響いている。

『命』はその生の悲しさ・はかなさを知るがゆえに、

それを深く識るが度に、

その『命』が持っている 『こころ』が

幾多の喜怒哀楽を 泣き 鳴き 啼き、

幾多の 詩 歌 唄 唱 を発して響かせる。



『こころ』 を携えて生きる 『ケモノ』、

それは 『にんげん』 だ。



…心臓の音、血流が体内で流れている音、

幾多の体液・細胞や遺伝子がその生命の体内で動き、躍動し、活動し、

空気、大気、水が在るこの星、
そして現世と大自然と一体と成って我々生き物たちは生かされている。

そして空気が振動し、そこに音が産まれ出でて、
その空気振動(音)は幾多の周波数を発し、
干渉・影響しあい、互いに受け合っている。



『オト』とは、

生きていて鳴っているその“生の鼓動そのもの”だ。


そうしてその鼓動…オトたちは、
発信し合い、受信し合いながら共鳴・共振している。


そうしてさらに互いに振幅し、震え揺らぎあいながらも、

そうしてさらに さらに大きく共鳴・共振しながら、

生きて、 活きて、 生かし合い、 活き合う。


ゆえに 『オト』は どれも美しく素晴らしい。


そして『オト』そのものを鳴らし響かせる核であり、
その根幹の発信源となっている、

『すべての命たち』は

どれもが尊く、美しく、素晴らしい。





俺は、紅いケモノだ。 それでいい。


月を見上げ、陽の光を仰ぎ、
風を感じ、水の流れる波形を聴き感じながら、

咲く花を愛で、咲き誇る華を尊び慈しみ、
泣き、悲しみ、怒り、喜び、
幾多の喜怒哀楽と出合い、重ね、越えて、

そうしてこの刹那の永遠が続く今生というこの一刻、
その俺の人生という名の野をまた駆ける。

人形が 見えない糸を断ち切るように、

ケモノは その首と四肢に課せられていた鎖を断つ。





俺は 紅いケモノとして 駆ける。

オトを 鳴らし 響かせることを また臨む。


生きて 活きて 生かし合い、 活かし合えること

俺はそれを強く想い また信じ続ける。


$My life with 『The OTO』。


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