白河小峰攻城記
今日は S-Boyと 白河へ行きました
まず向かったのは 小峰城
小峰城は 日本100名城のひとつであり 東北地方では珍しい 総石垣造りの城であることから 会津若松城,盛岡城とならび 東北3名城にも 数えられています
最近では 映画「武士の一分」の撮影のため 山田洋次監督が 小峰城を訪れました
周辺は 城山公園として 整備されています
石垣に囲まれ 入り組んだ通路 一般的に城攻めには 篭城する兵の 約10倍の兵力を擁するといわれています
復元された 三重櫓と前御門 小峰城は戊辰戦争にて その大半が焼失し落城しました
小峰復元三重櫓は 全国でも数少ない木造復元天守です その反面 大規模な木造建築は 安全性の面から 建築基準法で原則禁止されているので 規模は小さいです
そのほかにも 白河集古苑なるものがあり 築城主の結城氏や阿部氏の資料が展示されています
ちなみに 今日は閉館日で 「安倍氏と白河の戊辰戦争」という 展示はみれませんでした 残念・・・ またもや下調べ不足が露呈してしまいました
只今の走行距離 約80km
まず向かったのは 小峰城
小峰城は 日本100名城のひとつであり 東北地方では珍しい 総石垣造りの城であることから 会津若松城,盛岡城とならび 東北3名城にも 数えられています
最近では 映画「武士の一分」の撮影のため 山田洋次監督が 小峰城を訪れました
周辺は 城山公園として 整備されています
石垣に囲まれ 入り組んだ通路 一般的に城攻めには 篭城する兵の 約10倍の兵力を擁するといわれています
復元された 三重櫓と前御門 小峰城は戊辰戦争にて その大半が焼失し落城しました
小峰復元三重櫓は 全国でも数少ない木造復元天守です その反面 大規模な木造建築は 安全性の面から 建築基準法で原則禁止されているので 規模は小さいです
そのほかにも 白河集古苑なるものがあり 築城主の結城氏や阿部氏の資料が展示されています
ちなみに 今日は閉館日で 「安倍氏と白河の戊辰戦争」という 展示はみれませんでした 残念・・・ またもや下調べ不足が露呈してしまいました
只今の走行距離 約80km
天田愚庵
松ヶ丘公園内にもうひとつ像がありました
天田愚庵の像
誰だろう?と思い 調べてみると とても数奇な人生を歩んだ人でした
陸奥国磐城平藩 安藤家の家禄45石ばかりの家臣の5男 久五郎として生まれる
戊辰戦争に兄と出陣 兄は戦死
敗戦後 家に帰ると父母妹が行方不明であることがわかる
その後 上京 山岡鉄舟と知りあう 平田派国学者 落合直亮のもとで国学を学ぶ
明治9年 父母妹を捜しに 北海道に渡る
11年 鉄舟を介し 清水次郎長にあずけられる 久五郎の境遇に同情した次郎長は 肉親探しに八方手をつくす
その恩に報いるため久五郎は 次郎長から聞いた話をもとに「東海遊侠伝(次郎長の美点を誇張したものだった)」を書くが 出版元が決まらずお蔵入りとなる
次郎長の努力で数人の情報にたどり着くが いずれも別人であることがわかる
その後 次郎長のもとを去り 上京する
浅草の写真師 江崎礼二のもとで写真術を学ぶ
13年 写真師として清水を訪れる
翌年 次郎長の養子となり 富士山の裾野の開墾に携わる
生意気な性格であるため次郎長の弟子らから「生ちゃん」の愛称で呼ばれた
17年 「賭博犯処分規則」が施行され 次郎長は懲役7年 過料400円となる
減刑嘆願の資料として「東海遊侠伝」を提出するために 興論社から刊行された
その後 弟子らとそりが合わず離籍
京都有栖川家に奉職するが 長くは続かず 大阪内外新報社の記者となる
しかしまたも続かず 京都丘林寺で剃髪、禅門に入り 愚庵と号す
漢詩家、万葉調の歌人として 桂湖村、正岡子規らと活動し 多大な影響を与える
「死後は遁世者の儀に付 葬式を成す事を許さず」という遺書を書いた 4日後に亡くなる
死後 草庵が萩原井泉水らにより 松ヶ丘公園内に移築復元された
この像の後ろに見えるのが 移築復元された草庵です
蜘蛛の巣がはりめぐされ ひどい状況でした
天田愚庵の像
誰だろう?と思い 調べてみると とても数奇な人生を歩んだ人でした
陸奥国磐城平藩 安藤家の家禄45石ばかりの家臣の5男 久五郎として生まれる
戊辰戦争に兄と出陣 兄は戦死
敗戦後 家に帰ると父母妹が行方不明であることがわかる
その後 上京 山岡鉄舟と知りあう 平田派国学者 落合直亮のもとで国学を学ぶ
明治9年 父母妹を捜しに 北海道に渡る
11年 鉄舟を介し 清水次郎長にあずけられる 久五郎の境遇に同情した次郎長は 肉親探しに八方手をつくす
その恩に報いるため久五郎は 次郎長から聞いた話をもとに「東海遊侠伝(次郎長の美点を誇張したものだった)」を書くが 出版元が決まらずお蔵入りとなる
次郎長の努力で数人の情報にたどり着くが いずれも別人であることがわかる
その後 次郎長のもとを去り 上京する
浅草の写真師 江崎礼二のもとで写真術を学ぶ
13年 写真師として清水を訪れる
翌年 次郎長の養子となり 富士山の裾野の開墾に携わる
生意気な性格であるため次郎長の弟子らから「生ちゃん」の愛称で呼ばれた
17年 「賭博犯処分規則」が施行され 次郎長は懲役7年 過料400円となる
減刑嘆願の資料として「東海遊侠伝」を提出するために 興論社から刊行された
その後 弟子らとそりが合わず離籍
京都有栖川家に奉職するが 長くは続かず 大阪内外新報社の記者となる
しかしまたも続かず 京都丘林寺で剃髪、禅門に入り 愚庵と号す
漢詩家、万葉調の歌人として 桂湖村、正岡子規らと活動し 多大な影響を与える
「死後は遁世者の儀に付 葬式を成す事を許さず」という遺書を書いた 4日後に亡くなる
死後 草庵が萩原井泉水らにより 松ヶ丘公園内に移築復元された
この像の後ろに見えるのが 移築復元された草庵です
蜘蛛の巣がはりめぐされ ひどい状況でした
坂下門外の変
先日 NHK大河ドラマ「篤姫」の本編後 篤姫紀行というコーナーを観ていたら 現住の近くが紹介されていたので 行ってみました
松ヶ丘公園 安藤信正像
江戸幕府の老中が地元に居たとは 知りませんでした
安藤信正は 安藤家嫡男として 磐城平藩江戸藩邸で生まれます 父の死後 家督を継ぎ 陸奥国磐城平藩第5代藩主となり 若年寄を経て老中となります その直後 桜田門外の変で大老 井伊直弼が暗殺されると 事実上の幕政最高権力者となるのです
信正は 井伊直弼の強硬路線を否定し 穏健政策を進めます そのひとつが 皇女和宮と将軍家茂の縁組 公武合体でした
その後も 諸外国への金貨流出問題や物価高騰問題などの 防止政策を行い 政局安定に努めます
しかし 文久2年 江戸城坂下門外にて 尊攘派水戸浪士に襲撃されますが 命からがら 城内に逃げ延び 一命を獲りとめます
しかし 信正の傷をみた幕閣たちに 「背中に傷をうけるとは 武士の風上にも置けない」と非難され 女性問題や収賄問題の疑惑がかさなり 老中を罷免されます
その後 隠居・謹慎・減封処分を言い渡され 永蟄居{えいちっきょ(終身謹慎処分)}となり 磐城平に帰国します
その後 戊辰戦争では 新政府軍と戦いますが敗戦し またも謹慎を命じられ 明治2年に免じられるまで 永蟄居となります
享年52歳 その波乱に満ちた生涯を終えました
坂下門外の変以降 散々な人生ですね 永蟄居ってヤバイっすね
松ヶ丘公園 安藤信正像
江戸幕府の老中が地元に居たとは 知りませんでした
安藤信正は 安藤家嫡男として 磐城平藩江戸藩邸で生まれます 父の死後 家督を継ぎ 陸奥国磐城平藩第5代藩主となり 若年寄を経て老中となります その直後 桜田門外の変で大老 井伊直弼が暗殺されると 事実上の幕政最高権力者となるのです
信正は 井伊直弼の強硬路線を否定し 穏健政策を進めます そのひとつが 皇女和宮と将軍家茂の縁組 公武合体でした
その後も 諸外国への金貨流出問題や物価高騰問題などの 防止政策を行い 政局安定に努めます
しかし 文久2年 江戸城坂下門外にて 尊攘派水戸浪士に襲撃されますが 命からがら 城内に逃げ延び 一命を獲りとめます
しかし 信正の傷をみた幕閣たちに 「背中に傷をうけるとは 武士の風上にも置けない」と非難され 女性問題や収賄問題の疑惑がかさなり 老中を罷免されます
その後 隠居・謹慎・減封処分を言い渡され 永蟄居{えいちっきょ(終身謹慎処分)}となり 磐城平に帰国します
その後 戊辰戦争では 新政府軍と戦いますが敗戦し またも謹慎を命じられ 明治2年に免じられるまで 永蟄居となります
享年52歳 その波乱に満ちた生涯を終えました
坂下門外の変以降 散々な人生ですね 永蟄居ってヤバイっすね






