天田愚庵
松ヶ丘公園内にもうひとつ像がありました
天田愚庵の像
誰だろう?と思い 調べてみると とても数奇な人生を歩んだ人でした
陸奥国磐城平藩 安藤家の家禄45石ばかりの家臣の5男 久五郎として生まれる
戊辰戦争に兄と出陣 兄は戦死
敗戦後 家に帰ると父母妹が行方不明であることがわかる
その後 上京 山岡鉄舟と知りあう 平田派国学者 落合直亮のもとで国学を学ぶ
明治9年 父母妹を捜しに 北海道に渡る
11年 鉄舟を介し 清水次郎長にあずけられる 久五郎の境遇に同情した次郎長は 肉親探しに八方手をつくす
その恩に報いるため久五郎は 次郎長から聞いた話をもとに「東海遊侠伝(次郎長の美点を誇張したものだった)」を書くが 出版元が決まらずお蔵入りとなる
次郎長の努力で数人の情報にたどり着くが いずれも別人であることがわかる
その後 次郎長のもとを去り 上京する
浅草の写真師 江崎礼二のもとで写真術を学ぶ
13年 写真師として清水を訪れる
翌年 次郎長の養子となり 富士山の裾野の開墾に携わる
生意気な性格であるため次郎長の弟子らから「生ちゃん」の愛称で呼ばれた
17年 「賭博犯処分規則」が施行され 次郎長は懲役7年 過料400円となる
減刑嘆願の資料として「東海遊侠伝」を提出するために 興論社から刊行された
その後 弟子らとそりが合わず離籍
京都有栖川家に奉職するが 長くは続かず 大阪内外新報社の記者となる
しかしまたも続かず 京都丘林寺で剃髪、禅門に入り 愚庵と号す
漢詩家、万葉調の歌人として 桂湖村、正岡子規らと活動し 多大な影響を与える
「死後は遁世者の儀に付 葬式を成す事を許さず」という遺書を書いた 4日後に亡くなる
死後 草庵が萩原井泉水らにより 松ヶ丘公園内に移築復元された
この像の後ろに見えるのが 移築復元された草庵です
蜘蛛の巣がはりめぐされ ひどい状況でした
天田愚庵の像
誰だろう?と思い 調べてみると とても数奇な人生を歩んだ人でした
陸奥国磐城平藩 安藤家の家禄45石ばかりの家臣の5男 久五郎として生まれる
戊辰戦争に兄と出陣 兄は戦死
敗戦後 家に帰ると父母妹が行方不明であることがわかる
その後 上京 山岡鉄舟と知りあう 平田派国学者 落合直亮のもとで国学を学ぶ
明治9年 父母妹を捜しに 北海道に渡る
11年 鉄舟を介し 清水次郎長にあずけられる 久五郎の境遇に同情した次郎長は 肉親探しに八方手をつくす
その恩に報いるため久五郎は 次郎長から聞いた話をもとに「東海遊侠伝(次郎長の美点を誇張したものだった)」を書くが 出版元が決まらずお蔵入りとなる
次郎長の努力で数人の情報にたどり着くが いずれも別人であることがわかる
その後 次郎長のもとを去り 上京する
浅草の写真師 江崎礼二のもとで写真術を学ぶ
13年 写真師として清水を訪れる
翌年 次郎長の養子となり 富士山の裾野の開墾に携わる
生意気な性格であるため次郎長の弟子らから「生ちゃん」の愛称で呼ばれた
17年 「賭博犯処分規則」が施行され 次郎長は懲役7年 過料400円となる
減刑嘆願の資料として「東海遊侠伝」を提出するために 興論社から刊行された
その後 弟子らとそりが合わず離籍
京都有栖川家に奉職するが 長くは続かず 大阪内外新報社の記者となる
しかしまたも続かず 京都丘林寺で剃髪、禅門に入り 愚庵と号す
漢詩家、万葉調の歌人として 桂湖村、正岡子規らと活動し 多大な影響を与える
「死後は遁世者の儀に付 葬式を成す事を許さず」という遺書を書いた 4日後に亡くなる
死後 草庵が萩原井泉水らにより 松ヶ丘公園内に移築復元された
この像の後ろに見えるのが 移築復元された草庵です
蜘蛛の巣がはりめぐされ ひどい状況でした
