2018年4月13日(金)から4月15日(日)までの3日間、

天津中医薬大学を訪問してまいりました。患者さまには大変ご迷惑をおかけしました。

この場をお借りしてお詫び申し上げます。

 

今回の天津行きは、天津中医薬大学・中医学院の郭義院長のお招きで、

第3回日中中医学シンポジウムに参加するためでした。

郭義先生と筆者は25年来の友人で、

2人でこれまでさまざまな学術交流を行ってきた間柄です。

 

今回は、中医学院の学生や大学院生に日本の各時代の漢方医学の学説について

話をしてほしいという要請を受けました。

 
 
天津中医薬大学のキャンパス内に掲示された講演会のポスター
 
 
時間は、通訳を入れて3時間という長丁場です。
聴衆の学生さんたちは、中国の中医学を専門に学んでいますが、
日本の漢方医学についての知識はありません。皆さん、熱心に聞いて下さいました。
 
 
シンポジウムの会場で講演中の筆者。左に座っているのが、郭義先生
 
 

日本の漢方医学は、5世紀から当初は韓半島経由で、次いで中国から直接に、

古代中国医学が導入されて出来上がったものです。

特に、遣隋使、遣唐使の時代を経て、医療制度や教育制度も中国風に整備され、

平安時代には、すでに日本化された中国医学が確立されておりました。

そして984年には、丹波康頼によって『医心方』(984)という日本最初の医学全書が

書かれます。

 

日本は、その後も中国医学を吸収し続け、16世紀にはほぼ中国と同じレベルに達しました。同時に、韓国やベトナムも同じように、当時の中国医学を共有し、

東アジアは、一つの理念で成り立つ大きな医学文化圏を作り上げました。

 

日本はその後、江戸時代中期から独自の変化を遂げ、

吉益東洞(1702-1773)が新しい医学理論を提唱して、日本独特の「漢方医学」が

ここから形成されていきます。

 

明治維新を迎えた後、新政府はドイツ医学を採用し、漢方医学はその正当性を失って

凋落していきます。

現在の日本の漢方医学は、その中から立ち上がってきたもので、

西洋医学中心の一元的医療制度の中で、世界屈指の統合医療の形を作り上げました。

それが現在の漢方医学なのです。

 

筆者は、漢方医学の長い歴史を、3時間にわたって講義しました。

終わった後、皆さんの質問攻めにあいましたが、

どの質問も、筆者の話をよく理解した上での的確なものでした。

 

講演終了後、郭義先生は、次のように言われました。

「かつて天津中医学院には医史学教研室があり、その教室は、中国でも極めて高いレベルにありました。

今の先生のお話を聞いて、もう一度医史学教研室を復活させたいと思います。

協力していただけますか。」

 

これは、筆者にとって大変光栄な話です。
早速日本の研究者たちとも相談して協力体制を整えます、とお答えしました。
 
昼食後、天津中医や鵜大学の前の大きな通り(鞍山西通)の向こう側に広がる
天津大学のキャンパスにある海棠の花を見に行こうということになり、
郭義先生たちと出かけました。
 
下はその時の記念写真です。
 
 
天津大学のキャンパスで海棠の花をバックに記念撮影
左から2人目が、今回主催してくださった郭義先生
 
 

午後は、がんの指示療法としての鍼灸や漢方治療の講演会となり、

日本から同行された小川恵子先生(金沢大学病院臨床教授)が、

「がんと漢方医学-主に支持療法として-」というテーマで、日本での状況をお話になり、

次いで天津中医薬大学准教授の潘興芳先生が

「鍼灸によるがん治療-臨床での応用研究」というテーマで、中国の研究状況を

話されました。

 

この2つのセッションは、ともに、がんの主たる治療法である手術療法、化学療法、

放射線療法の副作用の軽減や、患者さんのQOLを高めるために、

いかに漢方医学や鍼灸が役に立つかということをテーマにしてすすめられ、

意外にも共通点の多いことに気づかされました。

 

今後は、アメリカのNIHの研究班に参加して、共同研究をしていこということで、

話が進みました。

 

 

講演される金沢大学病院臨床教授の小川恵子先生

 
 
講演される天津中医薬大学准教授の潘興芳先生
 
 
講演会が終わった後は、
通訳や翻訳を担当してくださった学生さんたちと一緒に、四川料理を食べに行きました。
皆さん、すごく日本語がお上手で、日本のこともよく知っており、
楽しくお話しし、食事をしました。
 
下は、その時の記念写真です。
 
 
翻訳と通訳に携わってくださった天津中医薬大学の学生さんたちと