お金は必要なとき生まれた体験 ② | 雑感放題

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66歳 ネット通販の印刷屋をやって15年。
老後安泰かと思いきや、
とんでもない壁が立ちはだかる。

デザイナーを始めたばかりは、
これで食えるのかと思って、
ビデオの撮影やら、
居酒屋を借りて、昼部門のカレー屋をやろうかとか考えていた。

 

この時の不安妄想はかなりのものだった。

始めてしまえば、結構重宝されて月70万円ぐらいは稼げるようになった。


その後、ある出会いによって製作会社を作ろうと会社を作った。
東京は出版系の製作者が少なくて、結構高額な製作料金をとっていた。
これを田舎でやったら、そこそこの金額で儲かるんじゃない。と思ったわけだ。


しかし、この会社は経費が大きくなって売上は2億近くにまでなったが、
自転車操業だった。


リクルートなどの政策も朝5時ごろから原稿をファックスで配って、
6時ごろから製作し9時ごろデータを東京に送って校了。

なんてこともやっていた。


案の定。分裂して私はやめて、本社は別会社の敷地に引っ越し、
最終的には東京へ移った。

この時はきつかった。
結局自宅を抵当にしていたので、700万円ぐらいを返済するはめになった。
これはずいぶん後のこと。


それから、DTPオペレータを個人で始めた。
クリックはその時につけた名前だ。

その後は、2年おきぐらいに業務内容が変わった。

教科書の製作から,首都圏の防犯名簿製作。
これは結構いいお金になったが、
この企画をしている会社が儲かっているため分裂して、
製作量は減り、止めは「個人情報保護法」によって名簿事態が作れなくなった。


急激に仕事量が減って、
何か新しい商売ができないか模索して毎日2万歩以上歩いていた。


捨てる神あればと言うが、現在も飲み仲間の公務員が、
「パソコン教室」やる?
と声をかけてくれた。


これで何とか1年は食いつないだ。

続けはいいなあ。なんて思っていると1年で補助金は終了。


この頃、息子は大学進学の時期になり、生活費だせないぞっ、というピンチ。


ある時、いままで一度も来たことがないゼロックスが営業に来た。


続く。