デザイナーを始めたばかりは、
これで食えるのかと思って、
ビデオの撮影やら、
居酒屋を借りて、昼部門のカレー屋をやろうかとか考えていた。
この時の不安妄想はかなりのものだった。
始めてしまえば、結構重宝されて月70万円ぐらいは稼げるようになった。
その後、ある出会いによって製作会社を作ろうと会社を作った。
東京は出版系の製作者が少なくて、結構高額な製作料金をとっていた。
これを田舎でやったら、そこそこの金額で儲かるんじゃない。と思ったわけだ。
しかし、この会社は経費が大きくなって売上は2億近くにまでなったが、
自転車操業だった。
リクルートなどの政策も朝5時ごろから原稿をファックスで配って、
6時ごろから製作し9時ごろデータを東京に送って校了。
なんてこともやっていた。
案の定。分裂して私はやめて、本社は別会社の敷地に引っ越し、
最終的には東京へ移った。
この時はきつかった。
結局自宅を抵当にしていたので、700万円ぐらいを返済するはめになった。
これはずいぶん後のこと。
それから、DTPオペレータを個人で始めた。
クリックはその時につけた名前だ。
その後は、2年おきぐらいに業務内容が変わった。
教科書の製作から,首都圏の防犯名簿製作。
これは結構いいお金になったが、
この企画をしている会社が儲かっているため分裂して、
製作量は減り、止めは「個人情報保護法」によって名簿事態が作れなくなった。
急激に仕事量が減って、
何か新しい商売ができないか模索して毎日2万歩以上歩いていた。
捨てる神あればと言うが、現在も飲み仲間の公務員が、
「パソコン教室」やる?
と声をかけてくれた。
これで何とか1年は食いつないだ。
続けはいいなあ。なんて思っていると1年で補助金は終了。
この頃、息子は大学進学の時期になり、生活費だせないぞっ、というピンチ。
ある時、いままで一度も来たことがないゼロックスが営業に来た。
続く。