架空の話です![]()
日曜日の午後、私は少し湿った空気に包まれた路地裏の喫茶店にいた。店の名前は特にない、ただ古びた木製の看板に「COFFEE」とだけ書かれている。中に入ると、豆を挽く香ばしい匂いと、低く響くハスキーな歌声が私を迎えた。スティングの「Englishman in New York」だ。雨上がりの気だるさを心地よく和らげてくれる音楽だった。
窓際の席に座り、ブレンドコーヒーを注文する。ぼんやりと窓の外を眺めていると、一人の女性が店に入ってきた。濡れた髪を軽く手で払い、黒いシンプルなワンピースを着ている。彼女もまた、私と同じように窓際の席を選んだ。しかし、私とは少し離れた場所だ。彼女が手にしたのは文庫本。熱心にページをめくっている。
私はただ、彼女の横顔を眺めていた。時折、彼女はふと顔を上げ、耳元で揺れる小さなイヤリングを指でなぞる。その仕草はどこか遠くを見つめているようで、憂いを帯びていた。BGMはちょうど、サックスのソロパートに差し掛かり、店内は一層静けさに包まれる。彼女の横顔と、スティングのメロディーが、なぜかとても自然に重なって見えた。
やがて彼女は本を閉じ、静かに立ち上がった。テーブルには飲みかけのコーヒーと、半分ほど残されたチーズケーキ。彼女が店を出る直前、ふとこちらに視線を向けた。その瞬間、私たちの目が一瞬だけ重なる。
その日以来、私は毎週日曜日の同じ時間、同じ喫茶店に通うようになった。彼女に会えるかもしれない、という淡い期待を抱きながら。そして三度目の日曜日、彼女は本当にそこにいた。
今度は私が彼女に声をかけた。「あの、いつもスティングがかかってる時に来ますね」少し戸惑ったように微笑む彼女は、「ええ、この曲が好きなんです」と答えた。
彼女の名前はアヤカ、海外での暮らしが長く、つい最近日本に戻ってきたばかりだという。「Englishman in New York」は、彼女にとってニューヨークでの日々を思い出させてくれる大切な曲なのだそうだ。
それから私たちは、毎週のように同じ喫茶店で会うようになった。スティングの音楽をBGMに、それぞれの過去や未来について語り合う。時折、彼女は日本語の中に英語を混ぜて話す。その発音が、私にはひどく新鮮で、心地よかった。
ある日、サビの「I'm an alien, I'm a legal alien, I'm an Englishman in New York」というフレーズが流れてきた。アヤカは静かに笑い、言った。「私はエイリアンじゃないけど、なんだかこの気持ち、わかる気がするんです」と。
その言葉を聞いて、私は彼女の孤独と、この街で生きる彼女の強さを感じた。そして同時に、私もまた、彼女と同じ「エイリアン」なのかもしれないと思った。
私たちはもう、ただの喫茶店の客同士ではない。スティングの音楽が繋いでくれた、特別な「Englishman in New York」なのだ。


