
日本は、台風の通り道だ。
1543年8月25日、この日も種子島の最南端門倉付近は台風の直撃を受けていた。
その荒れ狂う海の中を南蛮船が漂着した。その南蛮船には100名を超す乗組員がいて、ポルトガル人の商人が3名乗船していた。
運よく前之浜海岸に漂着し、その後 2晩目にようやく島主の住む西之表港まで曳かれて初めてポルトガル人が日本の地に上陸を果たした。
揺れる船内で、今後の行く末を考えていると、とても不安で 早く下船したいという気持ちが強くなり、弱気な心に支配された2日間だった。
一方 そう簡単に、上陸を許すわけにはいかないのが種子島の人たちの共通の考えだ。しかし、荒れ狂う海がおさまったとしても疲労が回復するとは思えない。人道的に考えるならば、ここは上陸を許可するのが当然だ。
初めてみる西洋人は、たった3名、後の多くはポルトガル人に雇われたアジア人だ。着ている物は違っていても、あまり日本人とは変わらない。
そして、双方交錯する思いの中で、上陸が行われることとなった。
台風は甚大な被害を及ぼすものだが、この時は 相手の心の中にある攻撃性を消失させ、時間を稼ぐことで平常心を思い出させ、助けられたものと助けたものとの関係が構築されたという意味では、台風と共にやって来たことに救われた思いがする。
1543年8月25日、この日も種子島の最南端門倉付近は台風の直撃を受けていた。
その荒れ狂う海の中を南蛮船が漂着した。その南蛮船には100名を超す乗組員がいて、ポルトガル人の商人が3名乗船していた。
運よく前之浜海岸に漂着し、その後 2晩目にようやく島主の住む西之表港まで曳かれて初めてポルトガル人が日本の地に上陸を果たした。
揺れる船内で、今後の行く末を考えていると、とても不安で 早く下船したいという気持ちが強くなり、弱気な心に支配された2日間だった。
一方 そう簡単に、上陸を許すわけにはいかないのが種子島の人たちの共通の考えだ。しかし、荒れ狂う海がおさまったとしても疲労が回復するとは思えない。人道的に考えるならば、ここは上陸を許可するのが当然だ。
初めてみる西洋人は、たった3名、後の多くはポルトガル人に雇われたアジア人だ。着ている物は違っていても、あまり日本人とは変わらない。
そして、双方交錯する思いの中で、上陸が行われることとなった。
台風は甚大な被害を及ぼすものだが、この時は 相手の心の中にある攻撃性を消失させ、時間を稼ぐことで平常心を思い出させ、助けられたものと助けたものとの関係が構築されたという意味では、台風と共にやって来たことに救われた思いがする。