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科学的な間違いに振り回されないように(2) 人格攻撃と信頼性

科学的な間違いに振り回されないように(2) 人格攻撃と信頼性

(読者の方からご心配をいただいているので)

原発事故については、いろいろな情報がネットを中心に発信されていますが、発信者が「専門(この分類が難しいが)かどうか」より、そこに書かれたことが「まともで真面目で前向き」かどうかが問題で、その発信内容で判別する方法を書きました。

原則としては、「そこに書かれたことの背景、歴史、経緯、根拠、データなどをしっかり説明し、全体像を明らかにしながら述べているもの」はOK。相手の人格の批判が中心だったり、相手の意図を憶測したり、言葉使いが普通には使わないほど汚なかったり、そして文章があまりにも激しい・・・などは信用できないと言ってよいでしょう。

たとえば、最近、私(武田)に関することで実例を挙げて説明します。

まず一つは、「私の郷里の山形では、舌先三寸で世の中を渡っていく口のうまい奴を“ベロ屋”と言います。これ以上ない軽薄な人間のことですが、よくテレビでしゃべっている中部大学教授とやらのあなたを典型的なベロ屋だなと私は軽蔑して見ていました。」というものがありました。書いたのは高名な人で、媒体は販売部数の大きな全国的な週刊誌のコラムです。

私の記述のどこに問題があるかを書くのではなく、まずは私の人格攻撃から始まっていました。学問は難しいので私もたいした学問的業績は上げていませんが、一応、所属する学会や大学から研究や教育を評価され、学術論文を出してきました。決して「舌先三寸で世の中を渡っていこう」としたわけではありません。

ここで私が弁明しようと言うのではなく、なぜこの著者が私が人生で「舌先三寸で世の中を渡ってきた」と判断したのか、そこを少しでも書いてくれればまだよかったと思います。

書いた人が学力も知識もある立派な人、載っていたのが有名な週刊誌ですからビックリしましたが、このような人格攻撃が主体の場合は「怪しい」と思って良いでしょう。あまり参考にしないようが良いと思います。人格攻撃をしたために書いてある内容が信頼を失ったのではないかと思います。

また、別の有名な方ですが、「理科系の大学教授(一見すると専門家に見える)の肩書きででたらめな話をしている武田邦彦氏は、あまりにもひどいので放置できない。」というのもあり、ここではでたらめな話の反駁として「原発は核爆発しない」、「1年1ミリには科学的な根拠がない」、「セシウム137は青酸カリより安全」ということが書いてありました。でも、いずれも科学的にはこの指摘は誤っていると考えられます。

まず「専門家かどうか」ですが、私は20年ほど原子力の仕事をして、20年ほど大学教授、そして原子力関係の国の委員も長くやってきましたから、「専門家(定義が難しいが)」ではないかと思います。

また科学的な指摘の誤りはこのブログにすでに書いてありますが、この方がなぜ誤ったかというと、おそらくは人格攻撃を先にしたので、その後に筆が滑って論旨が乱れたのでは無いかと思います。原発が核爆発するか、被曝と人体、それにセシウムの毒性などはいずれも「科学」の問題ですから、私の肩書きとか性質かというのは本来、関係が無いからです。

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常識も学識もありテレビにもでるような知識人が、「ベロ屋」とか「理科系の大学教授(一見すると専門家に見える)の肩書」というようなことを書いて良いのでしょうか? その人の「見識」とは「相手は相手が考えることがあり、それは必ずしも自分とは一致しない」ということを知り、「学問」とは「私たちは何も知らない」ということを知っていることです。

批判も良いのですが、論の中心はあくまで自分が考える正しい情報、正しい解釈を伝えることで、特定の人を侮辱したり、回復せざること(性別、生まれ、履歴など)を批判の対象にしてはいけないということも思い出してもらいたいと思います。

御用学者も困りますが、お二人とも評論の経験の豊富な文化人ですから、より紳士的(武士的)になっていただくこと、多くの方の見本になるような論述を期待します。私は自分の所属する組織(政府、自治体、NHKなど)の言動については批判させていただき、個人の批判は特別に地位の高く決定権を持っている人以外は控えるようにしています。

またこのような人格攻撃に対して、読者の方からご心配をいただきましたのでブログで説明をしましたが、私は個人的にはあまり気にしていません。そして、現在は、いかにして子供を被曝から守るかがもっとも大切で、少しでも知恵があればその目的に沿って行動するべきと思っています。ネットの多くが前向きな議論になれば、日本は明るく、発展性のある社会になると思います。

中部大学武田邦彦
(平成23年10月16日)

しっかり反論:瓦礫引き受け・・・量と濃度の錯覚

しっかり反論:瓦礫引き受け・・・量と濃度の錯覚

多くの自治体で瓦礫を引き受けることになり、心配が拡がっています。瓦礫を引き受けるのは自分たちの住む場所が少しずつ汚染されていくことであり、必ず阻止しなければなりません。でも、「瓦礫はあまり汚染されていないので大丈夫」と言われますから、その反論を以下に書きました。

1) 「量が少ないから大丈夫」という説明について

福島原発から漏れた死の灰の量は80京ベクレル(公式発表)で、日本人一人あたり約65億ベクレルになります。一方、セシウムは半減期が30年であり、ストロンチウムなどの放射性元素もありますから、ほぼ30年は被曝することを覚悟しておかなければなりません。今、10歳の子供なら、40歳まで被曝します。

30年間というのは約1万日ですから、仮に毎日、死の灰を処理できたとしても、毎日65万ベクレルの負担になります。人間は1日約1キログラムの食材、1キログラムの水をとりますので、この死の灰で汚染されたら1キロ30万ベクレルほどになります。食材の暫定基準値が500ベクレル程度であることを考えると、とんでもないことになることが判ります。

実際には死の灰は毎日、消滅することはなく、蓄積していきますから「量が少ないから大丈夫」と言っていると、取り返しのつかないほど汚染されていくということです。汚染されたものは数100億円で建設ができる焼却炉を福島原発の近くに作り、そこで処理するしか無いのです。



2) 「量」と「濃度」の錯覚に騙されないように

東京都のある区では「瓦礫の汚染度は低いので大丈夫です」と言い、たとえば1キログラムあたり4000ベクレルなどの基準を設けています。第一の問題点は、この数値は焼却前です。焼却によって体積が10分の1になりますから、濃度は10倍になり4万ベクレルとなります。4万ベクレルはセシウムの場合、法律で除去しなければならないレベルですから、もともと汚染されていない場所に「汚染物質を持ち込む」という結果になり、法律(このブログに示してあります)としても違法行為になります。

第二の問題点は、1キログラム4000ベクレルというのは「濃度」ですが、その瓦礫を1万トン受け入れますと400億ベクレルになり、受け入れるところの住民の数が1万人とすると、一人あたり400万ベクレルを背負うことになります。これは上の説明でも判るように大変な量です。

また、「1年1ミリシーベルト以下の被曝にしかならない」という説明もあるようですが、被曝は足し算で、食材の暫定基準値だけでも1年5ミリですから、水、普通の空間(例えば山形の場合は、0.125マイクロ×8760=約1ミリシーベルト)などを足しますと、子供たちが1年10ミリに近い被曝を受けることになります。

理由は不明ですが、自治体も専門家も常に「被曝は足し算」を忘れています。この足し算は、1)瓦礫、水、食材、空間、土煙などからの被曝をすべてを足す、2)風で流れてきた汚染、食材が運び込まれた汚染、自動車のタイヤについてきた汚染、瓦礫を運び込んだ汚染・・・などを足す、の2つの足し算です。

「少しでも自分の土地に住む子供の被曝を減らしてあげよう」と思ったら、心配ですから必ず足し算をするはずです。

中部大学武田邦彦
(平成23年10月16日)

科学の進歩と人間シリーズ(7) 

科学の進歩と人間シリーズ(7) 

文学の世界、法律や経済の理論では「人間の欲望」とか「性悪説」などが全面に出てきますが、科学の一つとして人間社会を考察してみると、その他にもいろいろな要因があることが判ります。

「専門性」、「職業倫理」、「倫理の黄金律」、「誠実さ」、「脳の欠陥を理解すること」などをよく咀嚼することによって、よりよい判断をすることができるでしょう。それでもまだ人間がもつ本来的な業(ごう)を克服することができるかを考えてみたいと思います。

その一つに「事実を見つめる勇気」があります。19世紀、チャールズ・ダーウィンが進化論を提案したところ、社会から猛烈な反撃を受けました。ダーウィンが進化論を提唱する前は「人間は神に似せて作られた」とされていましたので、それを突然「サルから進化した」と言われたので、一、これまで知っていた知識と違う、二、自分がサルの子孫などと思いたくない、という強力な理由があったからです。

一番目の理由はすでに解説をしたように人間の頭脳は自分の頭の中に入っているものを使って判断するので、進化論の前に聖書から教わったものを「正しい」と考えるからです。第二番目の理由は「イヤだから事実を正面から見ることができない」という別の人間の特徴からのものです。

反撃に手を焼いたダーウィンは「勇気を持てば真実が見える」と言っています。この言葉を逆に表現すれば「真実を見るには勇気がいる」と言えます。今回の原発事故も「日本の原発は震度6で壊れる」という事実をどうしても見ることができませんでした。また「1年1ミリシーベルトという線量限度を守ると、ここに住むことができない」と思うと、1年1ミリシーベルとが被曝限界であることを納得することができないのです。

でも、身を守ることも、正しい判断をすることも勇気を持って真正面から事実を見るしかないのです。ここに人間の心の弱さと厳しい事実との関係があります。

もう一つ、人間には克服できずにいることがあいます。それは「目の前の善」と「全体で長期的な善」を比較することができないということです。

すでに寝たきりになった老人はある意味では人間社会に重荷になるかも知れません。そして医療費が増え、社会はその負担に耐えられなくなる危険性があります。でも、だからといって寝たきりになったら終わりになってもらうことは人間にはできません。

目の前に起こっていることは個別の善悪で判断し、それがたとえ全体の善悪と相反しても認めることはできないのです。歴史の流れを見ると「個別の善」に従ったが故に滅びるという例があるのですが、これは人間がまだ克服することができずにいます。

科学的、経済学的なことでは、「個別の電気製品の省エネ化は、国全体のエネルギー消費を増やす」ということや、「合成の誤謬」がこれに当たります。ペットボトルのリサイクルをすると石油の消費量が増えるとか、節約をすると環境が悪くなるなどと一見して逆説的に見えるものも、個別と全体の矛盾が潜んだ問題です。

しかし、人間が常に個別の善悪を重視して全体を無視するのかというとそうでもありません。「国のために死んでくれ」と兵士に言うのは全体を重んじて命までも捧げてくれということですし、学校教育でも「国のために優れた人を作るので、試験をする」ということが行われます。

克服せざる人間の矛盾も科学技術が欠陥をもつ大きな原因の一つになっていると考えられます。

中部大学武田邦彦
(平成23年10月15日)