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幸福な人生  「まずいものを食べる」という趣味

幸福な人生  「まずいものを食べる」という趣味

私のブログに「私の趣味は、まずいものを食べること」と書いてあります。確かに、まずいものというのは結構、美味しいもので、それだけで趣味になりうるとは思います。

でも、それは私の幸福感というのに深く関係しています。私のエッセイの一つに「愛用品の五原則」というのがありますが、それが10年ほど前に高等学校の教科書に採用されました。私にとっては生涯、忘れ得ぬほど名誉なことなのですが、そこに私が書いたことは、

「人生を幸福に生きるためには、節約が一番だ。贅沢な生活で幸福になることはない」ということで、「その一つに愛用品に囲まれたしっとりとした毎日」であったのです。

すでに、こんなことは古今東西の偉人が何度も言っていることで、わたしのオリジナルでもなんでもありません。お釈迦様は「中庸がよい」といわれましたし、イエス様は「お金持ちより貧乏の方が幸福になる」と言われています。それを私は科学者なので、少し具体的に考えています。

人という生物は「今の状態で満足できれば幸福」という性質を持っています。たとえば今から1000年ほど前の平安時代には、水洗トイレはない、瞬間湯沸かし器もないのですから、汚い便所に座ったり、あかぎれの切れた手をさすりながら冷たい水で洗濯をしたものです。

それに比べると現在はウオッシュレットつきの水洗トイレや蛇口をひねるだけでお湯が出てくる生活ですから、平安時代は悲惨な生活のように思います。でも、その時代、数年ぶりに豊作になって稲穂が頭を垂れている田んぼの横で、草むらに仰向けになってそよ風に吹かれている彼は「ああ、俺はなんて幸福なんだろう!」と思ったことでしょう。

また、今から1000年後の人たちは私たちの生活を歴史の時間に学んで、「なんてひどい生活をしていたのだ!これでは奴隷のようじゃないか!」と驚くことは間違いありません。人間は、生まれてからの平均、ここ1ヶ月の平均が「平均」になり、それ以上なら満足、それ以下なら不幸と思うものです。

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金持ちというのは得てして不機嫌で怒りっぽいのですが、それは当然でもあります。たとえば「美味しいものを食べたい」と少しでも美味しいお寿司屋さんを探すと、最初は1000円、次は1500円となり、それが1万円ぐらいになると、次のお寿司屋さんもほとんど差がないほどの味になります。つまり、「美味しいものを求めていくと、人間の舌はその差を感じなくなる」ので不満がつのります。

さらに、加速の良い素晴らしい車を買うことができるようになると、いつも前の車が遅いと言って文句を言っていなければなりません。それもたちの悪いことに前の遅い一台を抜くと、さらにまた前に遅いのがいるではないか!!

私のような車好きの人間は、エンジンの音も聞こえない、排気ガスのイヤな臭いもかげないなら車に乗らずに、電車で行きます。車の良いところは、ガタガタ、ゴトゴト、時々、故障して手を焼かすことだからです。

毎日、美味しいものは食べられず、車に乗るとイライラ、何もトラブルのない毎日・・・これがお金持ちの生活ですから、不機嫌なのは当たり前のことです。

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ある時、東京の大学の学食に行ったときのことです。大学の中に食堂が5つほどあるのですが、その一つに「貧乏学生用の食堂」がありました。320円でたらふく食べ、カロリーも十分なのですが、なにせメニューが特殊です。

「アブラ揚げ」と言ったらよいのでしょうか、見かけは鶏の唐揚げのようなものなのですが、食べてみると、ころもの下は白い油の固まりなのです。つまり、「白い固まった油」を「液体の油」であげた唐揚げ??です。そして、慎重に白いアブラの中を探すと微細な1ミリぐらいの肉の痕跡を見つけることができます。なるほど、ちょっぴりのタンパク質と、大量の脂肪・・・これなら貧乏学生でもカロリーを取ることができるという計算です。

学生と一緒にアブラ揚げ定食(正しい名前はC定食)を食べたら、その後は極楽です。650円のサラリーマン定食、1000円のデラックス夕食、そしてホテルで3000円の食事をする度に、極楽のように美味しい味を楽しめます。

そしてまた1週間後、私は学食に行き、油揚げをほおばります。そこでまた私の舌をリセットするのです。このような私の行動パターンは食事だけではありません。重たい荷物を持っておっちらと階段を上ったり、寒い日に雨に濡れたり、「不幸なこと」は私にとってすべては「幸福の準備」でもあるのです。

「幸福とは不幸なことである」、「金持ちとは貧乏のことである」、「健康とは病気のことである」・・・それらはすべて真実なのでしょう。

中部大学武田邦彦
(平成24年1月23日)

頭の整理・・・被曝と健康(1) まずは基本:「被曝は最小に」(日本の法律編)

頭の整理・・・被曝と健康(1) まずは基本:「被曝は最小に」(日本の法律編)

政府と福島県が本格的な除染をしないことが確定し、東北から関東一円の地域でもホットスポットの除染が進んでいません。それどころか、反対に瓦礫を全国に拡散させたり、焼却炉の性能を良くチェックしないで、ゴミを燃やしたりしています。

このようなことが続くと、日本国民は一度、地面に落ちたり、ゴミに着いたりして私たちの生活圏から遠くに行こうとしている放射性物質を、再び取り出して、気中にまいていることなります。

そこで、政治的、あるいは市民運動はするにしても、同時に「個人でより正しく、被曝と健康のことを知る」という必要がでてきました。特に、「被曝しても健康だ」とか、「給食を拒否する親はモンスターだ」というような新聞記事や書籍がでる状態です。

私たちは本当に誠実になり、「お金を使うなら子供を被曝させよう」というのではなく、「今までの日本のように、誠実な国民でありたい」と念願してこのシリーズの執筆を開始したいと思います。

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まず、なによりも最初に「政府とメディアの二枚舌」をハッキリさせておきたいと思います。これは「政府やメディアを批判する」ということが目的ではなく、政府やメディアの人の心の中を確認しておくという目的です。

2011年(平成23年)、つまり昨年ですが、事故が起こってからちょうど7ヶ月後に、「電離放射線障害防止規則」という法律(規則)を改正しています。「事故後」であることに注意してください。

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この法律は「原発事故」とは直接、関係がなく、「放射性物質や放射線を取り扱う事業者に対して、そこに働く人(労働者と表現されています)を被曝から守る規則」です。私が今回の福島原発事故で、この規則を使うと「原発事故の法律ではない」という反論がありますが、それについては間違いですから、またゆっくりと解説していきます。

専門家なら、そんなことは十分に知っているので、この規則を参考にすることに反対する人は「他になにかの意図がある」ということですので、そのようなことを言う人はあまり相手にしないことです。

私たちの目的は、「学問と法律の考え方にそって子供たちを被曝から守る」ということであり、人の揚げ足を取ったり、法律の網の目をくぐったりするために日々の生活を送っているのではないからです。「趣味の反論」も人間としては子供らしくて可愛いところもありますが、「ウソ」と紙一重ですから、専門家は自制した方がよいでしょう。

ところで、この規則は実務的なものですから、状況に応じて比較的、頻繁に改正されます。事故の2ヶ月前の2011年1月にも改正され、ここに示したように、2011年の10月11日に改正されています。このように、1年に2回も変わっていますが、法律(規則)としては古く、この法律を理解しないで被曝関係の国家資格を取ることはできないというぐらい、その道の人たちにとっては有名なものです。

私も若い頃、原子力の施設長をしていましたから、この法律をそれこそ穴のあくまで勉強して、働いている人や私の研究所に来られる人を被曝から守ったものです。そしてこの法律(規則)の第一条には、次のように示されています。

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つまり、「放射線を出す機械や放射性物質を扱う人は、そこに働く人にできるだけ被曝させないようにしなければならない」という原理原則をうたっているのです。これは日本が法治国家であり、法律で国民の健康を守るという立場から、「被曝と健康について、日本国民はどのように考えなければならないか」を的確、明確に示しています。

「被曝をできるだけ少なくするようにしなければならない」というのは、日本の被曝に関する法律の大原則であり、これは国際的にもまったく同じことです。また、「日本の子供は被曝させても良いが、働く人は被曝させてはいけない」などということはありません。むしろ「働く人(多くは成人男子)でも、被曝はできるだけ減らさなければならない」と宣言しているのです。

このことを知らない政府、自治体の役人、放射線に関係する学者、専門家は「一人も」いません。それなのに政府の役人は「被曝しても健康に影響がない」と言ったり、自治体の職員が「被曝してはいけないという規則がどこにあるのですか?」と私に質問してくるのですから、日本人の頭がどうなってしまったのか? あれだけ普段から「法律、法律」と言っている役人がなぜ?と意外に思うのは私だけでは無いでしょう。

ここでは、まず事故が起こった後でも、日本政府は「被曝はできるだけ少なくしなければならない」という法律(規則)を作っているという現実を理解してください。つまり、政府は完全に二枚舌なのです。

中部大学武田邦彦
(平成24年1月23日)

国民を「幼稚園レベルのトリック」で騙そうとする政府

国民を「幼稚園レベルのトリック」で騙そうとする政府

前の総選挙の時、「高速道路の無料化」をはじめとした「実現の見込みのない政策」を掲げて政権を取り、前言を翻してばかりいる首相や大臣のもと、日本の社会は深く傷つきました。そして、今、また同じような手法を用いて、原発の安全、消費税増税という問題で、国民をトリックにかけようとしています。

消費税増税も大きな問題ですが、それはせいぜい、お金にとどまりますが、原発が再び爆発したら、子供の健康、日本の土地を失い、さらに経済に決定的な破綻をもたらします。今度こそ、私たちは冷静になって良く事態を見つめなければならないでしょう。

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「福島原発は津波で爆発したから、防潮堤を高くすると安全になる」という保安院の理屈は、言葉は悪いのですが、「幼稚園レベル」で国民を騙そうとしていると思います。
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簡単なことですが、福島原発の爆発後の写真を見ると、海から襲ってきた15メートルの津波は、たしかに5.7メートルの防潮堤は乗り越え、原発の前の海岸線にある小さな建築物を破壊しました。

しかし、40メートルもある原子炉建屋の前の建物で完全に止まっています。(写真の奥の壊れている建物が原子炉建屋、中程の無傷の建物は防潮堤として働いた建物で、高さ40メートル!!)

つまり、福島原発が爆発したのは、正面から来た津波ではなく、防潮堤の無いところから回ってきた「海水の浸水」だからです。福島原発の南側の海岸は無防備で、まったく防潮堤はありません。津波は陸に進入すると、真っ直ぐ奥に進むのではなく、横にも行きますから、原子炉は浸水して爆発したのです。

防潮堤を迂回して入ってきた海水によって爆発したのに、防潮堤を高くして何の意味があるのでしょうか? 大飯原発3号機、4号機でも、浜岡原発の再開でも「防潮堤を高くしたから大丈夫」と説明されていますが、もし国民がこのような簡単なトリックにダマされるなら、私たちは本当に子供を守ることができないでしょう。

事実を見ないで観念では安全を守ることはできません。事実を注視する勇気を持ちたいものです。

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これを普通の家に泥棒が入ったとして「たとえ」てみます。ある家に泥棒が入ったのですが、玄関に鍵がかかっていたので、勝手口に回ったら空いていたので、そこから進入しました。

ところが、勝手口が開いていたと言うのはまずいので、「玄関の鍵が一つだったので、鍵を開けて入られた」と警察にウソの報告し、「鍵を2つに増やす」からこれからは泥棒には安全だ、皆さんにご迷惑したと言い訳をしました。そして相変わらず勝手口は開けっ放しでした。

その家は2回、泥棒に入られました。玄関には2つの鍵がかけてありましたが、勝手口から進入されたのです。

あまりにバカらしくて話にもなりませんが、これが今、日本で最重要の「原発の安全性」で起ころうとしていることなのです。「玄関の鍵=防潮堤」、「勝手口=防潮堤のない海岸線」・・・こんな単純なトリックも「どうせ、自治体の偉い人や御用学者は知らないフリをするだろう。国民は気がつかないだろう」というのが作戦のように思います。

原発の運転を200年ぐらい中断して、十分に研究を行い、次に建設するときには

東京なら多摩川、名古屋なら木曽川の上流、そして京都と大阪なら琵琶湖のほとりに原発を作らなければなりません。フランスのパリを流れているセーヌ川の上流に原発を2基作ったように。

中部大学武田邦彦
(平成24年1月21日)