$Sam Cooke Taste Hunter

興味深い評論がある。

昨年は水嶋ヒロの『KAGEROU』が、ポプラ社小説大賞を受賞して話題になったが、そんなものには興味は無く、2004年に行なわれた『第三十六回 新潮新人賞』の候補作品の中にそれはある。

その新潮新人賞には『小説部門』と『評論部門』の二部門に分けられ、候補作品の中から各一作品が新人賞として選ばれ、受賞作品はその後出版される。
そのときの候補作品は次のよう。

【小説部門】

夜行列車 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 間宮征聡
卒塔婆衣〈そとばごろも) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 遷名智衣
すべては優しさの中へ消えていく ※「真空が流れる」に改題 ・・・ 佐藤弘
ピクニック ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 寺田徹
ジョニ黒 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 牧野ヤエ

【評論部門】

天皇の複数化―深沢七郎試論― ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 宮元淳一
鏡と嘔吐―『ガリヴァー旅行記』における近代国家の問題― ・・・・ 武田将明
甘やかなブルース サム・クック論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 石黒隆之

候補作品のタイトルを見れば、僕がどの作品に興味を惹かれているのか一目で理解していただけるでしょうが、それは石黒隆之さんの『甘やかなブルース サム・クック論』。

そしてその新潮新人賞の選考委員が、下記に揃ったそうそうたる作家達。

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    川上弘美       沼野充義       福田和也       保坂和志       町田康

小説部門に関して言えば、当初前年も候補に挙がっていた『ジョニ黒』の牧野ヤエさんが受賞するであろうと編集部サイドでは本命視していたようだが、37歳の牧野ヤエさんが70年代前半を小説の舞台設定にしたため、当時の物や人や言葉遣いや流行語が正確さを欠いた寄せ集めであるという指摘を受け落選。
で、結局小説部門は、新人賞には珍しい読み進みやすさが好感をもたれた、佐藤弘さんの『すべては優しさの中へ消えていく(真空が流れる)』が受賞した。

そして注目の評論部門。
結果から言うと、この部門での新人賞の該当作品はなし。

『サム・クック論』以外の二作品について、選考委員の一人である保坂和志氏はこう述べている。
「評論の三作のうち、宮元淳一さん『天皇の複数化』と武田将明さんの『鏡と嘔吐』の二作だが、天皇や国家について論じることが考えることだと誤解しないでくれと、宮元さんと武田さんだけでなく、多くの人たちに言いたい。」
もう一人の選考委員である福田和也氏も、文藝春秋で『昭和天皇』を連載しているだけに、このての作品には厳しかったと思う。

そしてその両氏ともに推していたのがなんと石黒隆之さんの『甘やかなブルース サム・クック論』だった。

石黒隆之さんは、福田和也氏が教鞭を揮う慶應義塾大学でのゼミ生・院生等の教え子の中の一人ということもあり、福田氏がこの作品を推すのも無理はない。
選考委員二人の支持を受けた『サム・クック論』で、評論部門の新人賞が決まろうとしていたかに見えた流れに、ある一人の選考委員の発言でそれは覆された・・・。


その選考会での出来事を、『サム・クック論』を推したもう一人の選考委員、保坂和志氏が自身のコラム『小説をめぐって』(リンク)で明かしている。

なかなか面白いので、『サム・クック論』に関して書かれている部分を抜粋してみた。


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~ 前略 ~


そしてもう一つの評論、石黒隆之さんの『甘やかなブルース サム・クック論』なのだが、選考会ではこれが一番の議論になった。

小説、評論あわせてすべての候補作を読んだ時点で私のイチ推しはこれだった。読みながらすごく興奮して、私は学生時代から二十代の頃に間章(あいだあきら)や高橋悠治の音楽評論を読んでフリージャズや現代音楽に熱い思いを抱いたことなどが甦ってきたりもした。

ところが!選考会で町田さんが、この評論には致命的な欠点があると言ったのだ。

町田さんの選評と重複するかもしれないが、私が理解したところを書くと、音楽の制作のプロセスを間違って理解していると言う。今はポップスはコード進行を先に決めておいてメロディを作るのが主流だが、サム・クックの時代にはメロディを先に作ってコードはあとからつけていた。しかし著者はコードが先の制作プロセスとしてサム・クックを論じてしまっている。

私がいまここにこうして書いていると、自分の書いたものを読み返してみて全然説得力がないのだが、選考会での町田さんの指摘の仕方はもっとずっと強く、説得力があった。そして選考会のあとも、夕食へと移動するタクシーを待ちながら、町田さんは、

「あれがもし将棋や映画についてだったら、保坂さんも容認できない間違いが、あの評論にはあるんです」

という意味のことを言った。

私の気持ちとしては、相対性理論やフェルマーの定理について書かれた本を読んで感動していたら、専門家から「あの本の前提になっている理解が間違ってるよ」と言われたようなもので、そこは信じるしかない。

それでも福田さんは受賞させる方向で抵抗した。論旨は、もし制作の現場がそうであったとしても我々はできあがった状態にしか接しないのだからこのような間違いも評論としては許容範囲である、ということだ。

しかし私が態度を翻した理由はまさにそこで、私は小説をまず書き手の側に取り戻すために、この連載を書いているのだ。私は制作者が作品を一番よく理解していると主張しているわけではない。しかし制作者にとって作品の解釈が明確に間違っているものは譲れない。福田さんによれば、小林秀雄の『モオツァルト』だって間違いだらけらしいが、間違いの上に乗る評論はおかしい。そこには評論として作品に接する接し方におかしなところがあり、私はそうではない接し方のためにこの連載でかいているつもりなのだから。

というわけで、今回の選考会で私は最も優柔不断な振る舞いを演じることになった。コード進行のことなど私にはわからないから、音楽評論となると気分で読んでしまうことになる。それはもう音楽評論を読むときの私の致命的な欠点で、冷静になって考えてみれば、それは私自身が音楽を聴いているときの気持ちともまた別のものであったのだ。


が、それでもやっぱりこの『サム・クック論』には大事なことが書かれている。ただし冷静になって読むと、それらの言葉は、先に結論ありきで、サム・クックの音から本当にそういうことが導かれうるかは疑わしいのだが、それでもやっぱり私はここに書かれているいくつかのことを忘れないだろう。

~ 中略 ~

話を『サム・クック論』の石黒さんに戻して、これが受賞しなくても、このレベルの評論をもう一度書いて、それを編集部に持っていけば、きっと編集部はそれを採用して掲載するだろう。「新人賞受賞」という惹句なんか関係ない。

$Sam Cooke Taste Hunter


ノノやはり、六三年のアルバム「Night Beat」は、作られねばならない作品だったのである。

この作品は、ベッシー・スミスの歌唱で知られる「Nobody Knows You When Youユre Down And Out」や、アイヴォリー・ジョー・ハンターの「Since I Met You Baby」などが収録された六一年のアルバム「My Kind Of Blues」と、対を成すものである。ホーンセクションを多用し、華々しく猛々しいサウンドの「My Kind Of Blues」は、BBキングやレイ・チャールズが、白人の聴衆を相手にするときと同じやり方でブルーズを聴かせている。ホーンセクションが、明確な記号となって音楽に輪郭を与えているから、聴き手は安心感を得られるのである(A)。一方、「Night Beat」には、ギター、べース、ドラムス、ピアノ、オルガンという小編成のコンボで、極めて淡々と熱することも冷めることもない演奏と歌が収録されている。過度なアレンジメントなどない。コードチェンジを示唆するピアノと、四分音符を確実に刻むベースラインは、楽曲を急かしたりしない。ギターのカッティングとオブリガードは、行間に吸い込まれそうな、仄かな感情を掬い上げ、ドラムスが派手なフィルインを見せびらかすことなど、ここでは起こり得ない。この音楽は、誰に向けられているのでもない。演奏する本人達のためにあるでもない。皮膜に覆われ続け、輪郭を失ったものへの、鎮魂歌としてのみ、存在している(B)。



右の引用の傍線(A)の一文だけで、私は文芸評論として掲載される価値があると思ったのだ。

聴き手、観客、読者ノノetc.は、輪郭を与えられることによってはじめて、作品に対する感想や評価を持つことができる。「輪郭を与える」「ノノとして定着させる」「受け手に対する方向づけとなる」等々、言い方はいろいろできるが起こっていることは一つのことで、作品の中に「こういう風に受けとめてくれ」という方向づけや輪郭づけがないと受け手は明確な感想を持てないのだが、受け手だけでなく作り手もまた、受け手が抱く感想を想定することが作品を作るときの拠り所のひとつとなる。つまり、引用に即して言うなら「作り手もまた安心感を得られる」。

これはひじょうに重要な指摘で、このような指摘を書けた人が受賞しないのは本当に惜しいことではあるけれど、このような指摘ができる人だからこそ、この評論によって受賞しなくても、遠からぬ将来私たちはこの人の書いた評論をどこかの誌面で読むことになるだろう。

一方、傍線(B)は引用につづく段落を読んでいってみても、音そのものから導かれたとは言いがたい。これは論じる対象への幻想から出てきたとしか言いようがない。ムムしかし、こう書きたい気持ちはわかる。読者としてもこういうことが書いてある方が昂揚する。つまり、「安心感を得られる」。早世した間章のジャズ評論はほとんどこういう文章で成り立っていた。小林秀雄だってこういう美学的文章だらけだろう。しかしそれでも、傍線(A)を書いた人は傍線(B)を書かずに評論を評論たらしめなければならない。自分でそう書いちゃったんだからノノということでなく、(B)のように書いてしまうことは私たちの注意を音楽を聴く行為そのものから逸らしてしまうことになる。対象のまわりにある幻想から美学的な昂揚感を演出するのでなく、対象それ自体につきつづけることが評論のとるべき道なのではないかと私は思うのだ。


(保坂和志『小説をめぐって11』より抜粋)

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何とまぁ、僕が若かりし頃に憧れてたパンク・バンド『INU』のボーカルだった町田町蔵こと町田康に、この『サム・クック論』を葬られたとは・・・。

僕自身、音楽活動や、まして作曲などしたことがないので、町田氏の見解が正しいのだろうと思う。
ただ "Night Beat" が出された後年には、サムはギターやピアノも演奏しており、古典的なブルースを基調としたアルバムともあれば、メロディよりも先にコードがあった可能性も否定できない。

きっとこの作品を推していた福田氏や保坂氏は、一人の音楽家の意見に納得しただけではなく、あの威圧感のある町田氏の目に脅されたんじゃないかとも想像する(笑)

「メロディが先かコードが先かっていう。それは作品の話じゃなくて、あなた自身の音楽観の話じゃないの? みたいな。」
と、大森望も豊崎由美との対談で、こう町田氏をチクッと皮肉ったりもしている。

しかし町田氏自身、過去には同じように自分の作品を選考されてきて今がある訳だし、著書である『告白』の出版の時にも某作家に酷くけなされてたようなので、あまり攻めるのも可哀想(^_^;)

別に新人賞が獲れたか獲れなかったなどどうでもよくて、この『サム・クック論』が書籍として出版されなかったことが、サム・ファンとしては凄く残念だということ。ただそれだけ。


その『サム・クック論』の著者、石黒隆之さんのことが気になり少し調べてみた。

いしぐろ・たかゆき/1979年生まれ。慶応義塾大学環境情報学部鋭意留年中。音楽とボクシングが生きる糧。現在1920、30年代のアメリカン・ルーラル・ミュージックを漁る。ジミー・ロジャース~ハンク・ウィリアムス~ボブ・ディランという流れに心をときめかせる、先天性オヤジ気質。愛読書は、ジョー・小泉「ボクシング・バイブル」。

そして『サム・クック論』以降、2005年には保坂氏の予想通り『新潮』5月号で「衰弱は弧線を描く―エルトン・ジョン論」を書かれているし、2008年の夏には『en-taxi's』 にて「彷徨うビート ボ・ディドリー」というものも連載している。
エルトン・ジョンに、ボ・ディドリーとはまた面白そうな題材で、それらの評論も興味深い。

プロフィールで驚いたのが、79年生まれだということ。
なんと今年で33歳。僕よりも10歳ほど若い方だ(^_^;)
その若さで『サム・クック論』とは恐れ入った。
いや、嫌味ではなく凄いなぁという驚きと、頑張って頂きたいという気持ちで言っている。

しかし、リアルタイムでそれらのアーティストを見てきた世代の方々の見る目は冷ややか。

石黒さんの「衰弱は弧線を描く―エルトン・ジョン論」を読んだ感想を書かれたブログがあったので、それも引用させてもらう。

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『新潮』5月号には、石黒隆之「衰弱は弧線を描く―エルトン・ジョン論」という、かなり長い論文が掲載されている。エルトン・ジョン論?ほほう? と思いつつ、大変に興味をひかれて読み進めるが、どうにもこうにもピント外れというか、それ以前に書いてあることがよくわからないので、そもそも石黒隆之という人を失礼ながら存じあげなかったから、巻末の筆者紹介をみると、1979年生まれとある。79年生まれでエルトン・ジョンの論文?この時点でバカにしてもよいのだ、と迷いがなくなる。もっぱらライブの様子を語って、その「声」の衰えを順序だてて示すことで、エルトン・ジョンについて語り起こす。

この際、お前の書いていることはすべて間違いだ! と言うことはやめる。それよりも、ああ、こわいもんだな、と思ったのが、何年前か後楽園ドームでも来日公演が実現した、エルトン・ジョンとビリー・ジョエルのジョイント・コンサート。石黒氏はこのステージについて、おおむねビリー・ジョエルの演奏水準の高さに対して、エルトン・ジョンの演奏能力の低下といった印象を記している(もちろんそれに対するエルトン・ジョンのよさについてフォローもしてるのだが)。 実は私もこのステージには足を運んだ。で、私自身はそれとはまったく反対の感想を持った。エルトン・ジョンの何ら変わることのない、ステージ・パフォーマーとしての力量とエネルギーに感服する一方、ビリー・ジョエルのすっかり悠々自適、もうてっぺんに上がっちゃった人特有の、悪く言えばやる気のなさ、よく言ってもそのリラックスぶりが、否応なしに際立っていたのだ。もちろん、そんなビリー・ジョエルの姿に腹を立てることなどなかった。根っからのパフォーマーであるエルトン・ジョンと、ハングリーさを失ったビリー・ジョエルの資質の違いを、むしろ楽しんだくらいだ。

石黒氏には悪いが、こっちは『グラス・ハウス』の時から、『フロント・ストーム』に至るまでのビリー・ジョエルを、来日のたびにずっと見てきているのだ。おそらく、私の印象の方がまちがってない。ステージの模様を使って、論を書き起こすのなら、それ相応の場数を踏んでないと難しいだろう。知らぬ者がこの「エルトン・ジョン論」を初めて読んだら、まったく違う印象をもってしまうはずだ。

音楽について論じるのは本当に難しい。特にエルトン・ジョンのような、天才そのもののソングライターについて書くのは。石黒氏の試みはそのことに、たぶん意識的で、そのことをわかったうえで、ライブのエルトン・ジョンに特化し、楽曲上の変遷についてはまったく触れぬ方法を選択した。そのことに対して感心はするが、しかし、ひとつひとつが間違っていたら何にもならない。そして、間違えないということはとても困難なのだ。(結局、間違いだ!とか書いてしまった)

(ダイアリー:Apr.12(Tue)【エルトン・ジョン】より)

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うん、確かに評論となると難しいのは分かる。
生でライブを体感してきた人の感想とか意見は貴重だと思うし重みもある。
同じような意見を冒頭で書いている、新潮新人賞の小説部門で落選させられた牧野ヤエさんの『ジョニ黒』の選考にみた。

しかしそうなると、既に故人であるアーティストなどのライブを体験出来ない若い世代は、そのアーティストに関しての発言は出来なくなってしまう。
言ってみれば、サム・クックことなど殆どの人が発言してはいけないようなものだ。
それに評論でも小説でもダメなら、司馬遼太郎など坂本龍馬を語ってはいけないんじゃないか?
と、石黒さんをかばいつつ自己防衛的に言ってみる(^_^;)

思うに逃げ道として石黒さんには、ストレートな評論や真実に忠実な自叙伝的小説を書くより、故人のアーティストを題材にするならタイム・スリップものにして書いてもらいたい(笑)

例えばサム・クックを題材にするなら、現代を生きるPV撮影やレコーディングなど何でも出来るサム好きの敏腕プロデューサーが、2011年のカウントダウンとともに、ひょんなことから63年の元日になるマイアミにタイム・スリップして、サムのハーレムのライブ映像を記録したり、サムを現代に連れてきてサムの死後以降の音楽を聴かせ、それに刺激を受けたサムが新たにレコーディングしたり、そのプロデューサーがサムの死を食い止めようと奔走したりするという、どこかで聞いたことあるような話にするとか(爆)

なんて冗談はともかく、石黒隆之さんの『甘やかなブルース サム・クック論』を読んでみたいんです!