$Sam Cooke Taste Hunter

トップの写真は、シカゴの中心地にあるレストラン”Dee's Place”に飾ってある1950年頃のサムと友達。
手にはタバコを持ち、小粋なスタイルで友達に囲まれる姿は当時から人気者だったことがうかがえる。

では前回からの続き・・・・・・主のお告げを聞いたサムの父、チャーリー・クックはポケットに35セントを押し込みクラークスデールを出た。持っていた車と豚を売り払ってそのお金を妻に残し、もう一人の説教師と二人でトラックを乗り継ぎシカゴを目指す。
当時シカゴの街は、同じように南部を出てシカゴに向かった黒人家族で溢れかえっていて、第一次大戦から第二次大戦の始めまでに、黒人の人口はおよそ三倍にも膨れ上がっていたという。

チャーリーは、ブロンズヴィルと呼ばれるシカゴの黒人人口の90%が住んでいた移民街にたどり着く。
そこには古くから馴染みのある、チャーチ・オブ・クライスト(ホーリネス)もあり、ラッキーにも家畜関係の肉体労働という職にも恵まれ、四十歳になろうとしていた彼は、家族を連れてシカゴに移住した。

$Sam Cooke Taste Hunter

最初、一家は33丁目とステイト・ストリート(ブロンズヴィルのブロードウェイにあたる通り)の角に住んでいたが、まもなくそこから2ブロック北、コテージ・グローヴ・アベニュー3527番地にある、レノックス・ビルディングに部屋を見つけて移った。それが地図上の赤A点。
( 3527 S Cottage Grove Ave Chicago, IL )
ありがたいことに、クラークスデールのサムの生家と違い、この地区周辺はストリート・ビューで確認できるので、早速その場所へ。

$Sam Cooke Taste Hunter← これが伝記本”Mr.Soul Sam Cooke”からの画像で、右側の建物が1954年頃のクック一家が暮らしたレノックス・ビルディング。
当時あったレノックス・ビルディングは、がっしりとした三階建てのレンガ造りのアパートだったそう。
そのアパートの一階は食料品店。
そしてこの界隈には家族経営の小さな店が軒を並べていて、5~6歳だったサムやその兄弟姉妹たちは、地元の商店主を全員知っていたし、向こうも彼らを知っていたくらい親しい関係だったそうだ。
$Sam Cooke Taste Hunter← 現在のその場所をストリート・ビューしたのがこちら。
そこは同じ二棟の建物に挟まれた空き地。
新しめの公団住宅のような建物に挟まれたその場所は、綺麗に芝生が敷き詰められ、当時の面影はまったく無くなっている。

シカゴの人口推移を調べてみると、サムが暮らしていた50年代をピークに、360万人ほどいた人口は、郊外移住などにより現在100万人ほど減少している。

ここブロンズヴィルも例外ではなく、1953年当時はブロンズヴィルの中心部の人口密度は、1マイル(約1キロ600メートル)平方あたり、十万人という驚くべき数字だったそう。
それを考えると全体にスッキリとした街並みは当然のことながら、なんだか寂しい気もする。

このコテージ・グローヴの3527番地に住む最大の利点の一つが、サムが通うドゥーリトル小学校がブロックを下ったすぐ近くにあることだったそう。
そのドゥーリトル小学校は、現在その位置には無く、今はサムの住んでたアパートから南北に通る道を上がり、最初の交差点を西に向かった所にある建物。

$Sam Cooke Taste Hunter
( Doolittle Elementary School : 535 E 35th St, Chicago, IL 60616)

そこを訪れてみると、教師が足りなかったほど生徒数が多かった当時とは比べものにならない位に小さな小学校で、狭い校庭には申し訳ない程度の遊具が設置されている。

サムに初めて友達ができたのもこのドゥーリトル小学校で、その頃の友人たちとはサムが亡くなるまで親交を保ってたそうだ。多分、トップ画像の友人たちもその頃からの友人なのかもしれない。
サムの両親は教育熱心だったし、コミュニティも密だったため、サムはさほど面倒を起こすことはなかったそう。
生前、サムはきれいで丁寧な文字を書いていたそうだが、その文字を習ったのもこのドゥーリトルで、生まれて初めてソロを歌ったのもこの小学校での行事だったらしい。
そして、幼い初恋もこのドゥーリトルだった。
初恋の相手、それは笑顔が素敵で、キラキラ光る茶色の瞳をした双子の美人姉妹の一人。
名前を、バーバラ・キャンベルといい、二十年後サムの二番目の妻となっている。

しかし、クック一家に限って言えば、サムが最も大切な教育を受けたのは、そのドゥーリトル小学校ではなく教会だった。
教会はコミュニティの中心的存在で、説教師をはじめ、学校の先生や母親、後ろの席には警官と、サムが善悪を学んだのも教会なら、彼が一番熱心に勉強したもの『音楽』を教わったのも教会だった。

父親のチャーリーは説教師でもあり、自身の説教をする教会はコテージ・グローヴの自宅から48キロも離れた場所にあって、普段幼いサムはその教会には行くことがなかったが、クック家の向かいにある大きなウエスト・ポイント教会には兄弟姉妹でよく通ってたそうだ。

そのウエスト・ポイント教会は、現在も同じ場所にあり、地図上のサムの自宅があった場所から道路を挟んで南に少し下ったところにある、茶色の屋根がそれ。

そこで、サムたちは最初に聖歌隊として歌を唄っていたが、しだいに弟のL.C.クックなども加え、クック一家の子供たちでグループを組むようになる。
その頃サムは十歳、グループ名を『ザ・シンギング・チルドレン』としてプログラム・デビューした。

サムの兄は言う。「あいつは言葉を覚えるが早いか歌ってた。歌うのが大好きだったんだ!テナーのいい声をしてたね」。
ソウル・スターラーズの面々は、スターラーズ加入後にサムの歌い方が変化したと言っているが、この頃のサムを知るサミー・ルイス師は、サムがシンギング・チルドレンで歌ってた頃、すでにヨーデルみたいな歌い方をしていたと語る。
「あの子は、いわば何というか、渦巻き模様とでもいうんですか、それを声で作ってみせたんです。みんな、それは興奮したものですよ」

そんな歌声を聴かせてた、ウエスト・ポイント教会のストリート・ビュー画像をバックに、そのシンギング・チルドレンでも歌ってたであろう黒人霊歌、"Swing Low Sweet Chariot"を、サムの声で。


( West Point Baptist Church : 3566-72 S. Cottage Grove Avenue, Chicago, IL )
$Sam Cooke Taste Hunter
静かに揺れる 愛しのチャリオット
(僕を迎えに来る)
静かに揺れる 愛しのチャリオット
(故郷へと運んでおくれ)

ヨルダン河に見たものは 
舞い降りる天使の群れ

もし先に着いたのなら 
僕もすぐに行くよと伝えてくれ

時には浮き沈みがあっても 
僕の魂は天国と繋がっているんだ

最も人生で輝かしい日とは 
神が全ての罪を拭い去ってくれたときだ
(故郷へと運んでおくれ)

サムの曲、"Only Sixteen"はこの曲をモチーフに作られたのではと思える"Swing Low Sweet Chariot"
伝記には"Low"のほうではなく、"Swing Down Sweet Chariot"の"Down"のほうなどを歌っていたとされているが、どちらも古典的なゴスペル・ソングで、それをRCA時代に録音してるとあれば、きっとシンギング・チルドレンの頃も歌っていたのではないかと思う。

歴史が好きで本を読み漁っていたサムは、西アフリカから何千万人もの人々が拉致され、一部は航海途上で亡くなり、捨てられた末、残った人々は米国南部の農場で重労働を強いられたと言うアフロ・アメリカンの歴史を学び、天国への神の導きを歌う黒人霊歌を、奴隷制のない自由な米国北部への解放を祈る歌として歌っていたに違いない。

そんなことを考えながら、この"Swing Low, Sweet Chariot"の歌詞を見ていると、当時のクック家の暮らしを物語っているようにも捉えられる。
クラークスデールの白人地区で、奴隷のように下働きをしていた父チャーリーが、大恐慌をきっかけに天国であろうシカゴを目指し、車を売ったわずかな資金で、家族と共に静かに揺れるチャリオット(一人乗りの二輪馬車)のごとく、公共の乗り物なりトラックを乗り継いで、第二の故郷となるシカゴにたどり着いた経緯を表しているよう。
そう、時には浮き沈みがあっても、サムの魂(ソウル)は天国(シカゴ)と繋がっていた・・・。


すみません、なんだかこじつけたような文になってきたので今回はこの辺で(^_^;)

次回は、スターラーズ加入までの、シカゴ後編と道を進めていきます。