こんにちは。ベルーガです。
今日は太宰治さんの小説『ダス・ゲマイネ』の読書感想文です。信州読書会さんのツイキャス読書会の課題図書でした。



ダス・ゲマイネ 読書感想文

 

 

これは、男のロマンを表現している小説なのだろうか。

冒頭から「恋をした」と、始まったので、盲目的な恋の行方が続くものと思ったが、その後馬場という男の出会いのあとは、胸騒ぎを感じるような、怪しげな男同士のやりとりが続いていく。小説を書くという妙案から、佐野、馬場に加えてあらたに佐竹と太宰が加わり、癖のある強い個性の創作集団が生み出されるのかと思いきや、最後は馬場から佐野への愛の告白、そして突然の佐野の死で話が終わる。

 

この4人が出会った意味は何だったのか?なぜ佐野は死ななければならなかったのか。いろいろな疑問が読み手の私には沸き起こるのだが、そういった現実的な思考を超越した馬場の立ち振る舞いがあまりにも浮世離れしていて、こういうのが男のロマンなのだろうか?と私は空想した。馬場はハチャメチャで、気分屋だ。暦に敏感で、「今日は八十八夜」とつぶやいて一緒に浅草に飲みに行ったり、実家に帰った佐野に死ぬな、一緒に本を出そうと手紙を寄こしたり。それでも佐野はそんな馬場が嫌いではなかった。馬場の感性に付き合うことができたし、むしろ癒されていたのではないか。佐野からの愛の告白に実は自分もあなたを愛しているのだと本当のことを言いかけたけれど、馬場との友情が壊れるのがこわくて菊が好きと嘘をついたのだろうと私は思った。

荒城の月を作曲した滝廉太郎は本当は馬場なのだと、信じてやってもいいと佐野は思っていたのだと思う。寛容な、ふたりの世界。

 

この小説を男のロマンと解釈したいという私のわがままを許してほしい。私も馬場ほどの人は手に負えないにしても、佐野とは友達になってみたかった。在りもしない話を思いっきりぶちまけて、横に「別にあなたの話を聞くのは嫌いじゃないさ」と言って佐野が座ってほほえんでくれていたら、いいのになあ・・・と妄想していた。しばしの間。

 

 

 

おわり



ご訪問いただきありがとうございますおねがい

素敵な夢が訪れますようにラブラブ









こんにちはベルーガです
土曜日からインフルエンザになってしまいました。

先週ちょっとハードでしたので、終わって気持ちが緩んだ瞬間にすかさずウィルスにやられてしまいました。
今ハマっている阿部寛のドラマでも見て、ゆっくりさせていただきます。
なぜ阿部寛に癒されるのか…(笑)

ご訪問いただきありがとうございます😊
素敵な夢が訪れますように🧡









こんばんは。今日は信州読書会さんのツイキャス読書会の課題図書、坂口安吾の『白痴』の読書感想文を書きました。小説の中心テーマからあまりにも外れてしましたので、反省。それにしても、伊沢目線がちょっと精神的にこたえたなあ(>人<;)

感想文を書いた感想(笑)をこえのブログにしました。「あの」「まあ」「たぶん」を連発していて、お聞き苦しいと思います。
10回録り直してもこれですからm(_ _)m話し上手になりたいものです。



『今眠ることができるのは、死んだ人間とこの女だけだ』

誰かがやることのまねをしたら、怒られたり叩かれたりされなくて済む。言われていることの意味が分からなくても、身振り手振りで繰り返し教えてくれたらやがてできるようになる。そうやって私は過ごしてきた。
あるとき、初めて出会った男の人がすごく私につきまとって、それからその人が私と「けっこん」したいと言って親に会いに来た。親はとっても喜んで「この子をお願いします」と言って、それから私は遠いところまで来て、男の人の家に住むことになった。その家には男の人のお母さんがいて、私のことをひどくにらみつけた。お母さんは私に「そうじ」とか「せんたく」とか「お米をとぎなさい」とか言うけれど、何のことかわからなくて体が止まってしまった。そうしたらお母さんがひどく甲高いあひるみたいな声で私にガーガーと怒鳴って、ほうきをもって追いかけてくる。だから近くの豚がいるところに逃げてきた。お母さんも男の人も豚が嫌いだからここまでは来ないの。男の人は私の体にさわってくる。そして私をほめてくれる。けれどお母さんは、怒るからきらい。
お母さんがいつものようにほうきで私を殴ろうと追いかけてくるから豚小屋に逃げてきたとき、ちょっと違うところまで走ってきてしまってよく分からないまま見えた入り口から階段を上がったら、畳のお部屋だった。お母さんのところに帰るのが嫌だからそこにいたの。そしたら夜になって男の人が入ってきた。いつか見たことのある人だった。どうしたらいいのかわからなくて、体がまた止まってしまった。男の人は布団を敷いて私に「入れ」と言うから入ってみる。男の人は私の体にさわってくるはずなんだけど、この人は何もしない。何かがちがう。こわい。よくわからないことを言ってはまた布団に入れと言う。繰り返しているうちに私は眠くなってしまった。
次の日からその男の人は朝になると出て行って、夜になったら帰ってくる。もうお母さんは来ない。食べ物も男の人が用意してくれる。ここにいたら静かだし、嫌なことがあまりない。
時々お母さんのようなすごいキーキー音で空から「ひこうき」が飛んできたり、ドーンと「ばくだん」の音がひびく。大きな音は嫌い。私も大嫌いな音だけど、男の人もすごくこわいみたい。音が鳴り止まなくて家の外に連れ出されて、「シヌトキハ、コウシテフタリイッショダヨ、オソレルナ」とか言われて、手を引かれてとにかく走った。豚小屋までしか走ったことがなかったから、心臓が飛び出そうなくらい息が上がった。水を体にかけている人がいた。私も同じようにした。歩いて歩いて畑を超えたら木がたくさんあって、布団を敷いてそこに座った。疲れてきた。足も痛いし煙で目が痛いし、もう眠い。目が閉じてくる。眠りたい。男の人は私のそばにいる。
ああ・・・火がすごかった・・・豚たちは、生きているだろうか・・・。

                                     おわり






こんにちは😊
アメーバブログの「こえのブログ」が前から気になっていましたので、試しにちょっと喋らせていただいています。

今日は色川武大さんのうらおもて人生録の読書感想文を載せさせて頂きます。この本の詳しい解説がお聞きになりたい方は信州読書会さんが読書会の様子をYouTube にアップされていますので、YouTubeで『信州読書会』と検索頂いたらと思います。


『お母さまへ』

私は時々自分が母であることを忘れている時がある。
今は子育て世代の女性も子どもの幸せのみではなく、自分の幸せを追い求める風潮の世の中だ。楽しい消費財がたくさんあるし、自分がハッピーなことが子どもにとってもプラスになるというフレーズもよく見かける。けれどこの一文を読んではっとした。

(引用はじめ)
(ツキの)サイクルを、個人の一生として受け取らないで、2、3代のトータルとして考えることも必要みたいです。だから、ご両親や、その前代の方々の一生の運を計ってみて、それらの方々が幸運な一生を過ごしたと思えるのでしたら、貴方、あるいはその子、孫あたりのところまで、充分注意してください。(p320)
(引用終わり)

祖父母や曽祖父母がどんな人生を送ってきたのかを私は知らない。父母の人生はおぼろげに把握している(つもりである)。私自身は自分なりにいろいろあったと思っていても、やっぱりトータルで見ると命の危険もなく物質的な不足もなく今まで過ごすことができた。子どもには自分以上の幸せを掴んでほしいと願っている。
しかし、私自身の考え方は浅はかなのかもしれない。
著者の人生は波乱に富んでいるように私には思えるのに、著者は自分自身を「祖先の血の中の貯金を食っているように思える、自分の力でないものによって恵まれている」と表現している。

自分の力や実力で15勝0敗の人生を歩めるわけではない。たとえをそれが9勝6敗でも、勝ち越した3勝は祖先が残した血を消費しているのかも知れない。今の自分が生かされているのは、祖先が自らの犠牲を積み上げてきた産物なのかもしれない…そう考えると、年老いた親の身の回りの世話をすることも当然のように受け止められる。生きているのではなく、生かされているのだと。

もともと親は自分の財を子どもに受け継ぎたいと願うものだと思う。運もしかり。
けれど、私たち夫婦を省みても、次世代に受け継ぐべき運を自分の代で消費し尽くし、そのツケだけを後世に回す悪しき循環の一端を担っている。そう思うと、子どもに申し訳ない気持ちになった。兄弟も残してやれなかったなあ。

著者は、子どもを持たなくてよかったと記していた。せめて自分のツケを回さないという次世代へのけじめのつけ方。

私は?
自分の日常から少しでも子どもに運を残すには、何をどこから手をつけたらいいのだろう?例えば利便性をぬぎ捨て、あえて不自由さを選びエコを心がけるとか??けれど長きにわたり染み付いた自分の利己心がそれを受け入れるだろうか?

悶々としてきた。

おわり


ご訪問いただきありがとうございます😊
素敵な週末をお過ごしください💛






こんばんは。
今日は子どもの運動会。朝からお弁当作りでした。
今、組体操の是非が話題になっていますね。
私の子どもの組体操見てると、随分簡素化されているように思いました。私の時はカザグルマとかあった。土台になるのが難しかったなあ。ピラミッドもいくつも作った記憶ありますが、今日のは中央にひとつだけ。その他大勢は周囲でヒラヒラと振り付け。落ちて骨折するほどには見えなかったです。学校によってハードさが違うのでしょうね。


今日は、村上春樹『海辺のカフカ』読書感想文です。
信州読書会さんのツイキャス読書会に提出したものです。読書会ではナカタさんが人気でした。憎めない素朴な人柄が味があります。しかし、上下巻読むには根気がいりますね^^;



『怒れる若き人』


田村カフカは、衝動的な勘で四国高松に向かうが、それは結果として自分のルーツをたどる旅になる。カフカは、ある心の命題を抱えている15歳の少年だ。4歳の自分を置いて出て行ってしまった母と姉を恨み、自分を愛してくれない父を恨んでいた。

(引用はじめ)
なぜ母親に愛されなかったのか、それは自分に深い問題があったからではないのか、ぼくは生まれつき汚れのようなものを身につけた人間じゃないのか僕は人々に目をそむけられるために生まれてきた人間ではないだろうか (新潮文庫下巻p373)
(引用おわり)

60代半ばのナカタさん、カフカの父である田村浩一、カフカの母と仮定される佐伯さん、姉と仮定されるさくらさん、私設図書館の大島さん。主要な登場人物はみな様々な事情を抱えた孤独な人たちだ。それぞれが何かしら誰かを巻き込みながら、個と個が点と点でつながっていく。
それらが関係していく様を大島さんは「メタファー」と表現する。
そのメタファーでつながるそれぞれの関係は、誰かの心の孤独を誰かが埋め合わせる関係だ。誰かの心が満たされた瞬間に、また別の誰かの心のすき間が深く掘り下げられ、物語が展開していく。

ナカタさんは9歳のある日突然知的にハンディキャップを負うが、誰かを恨む感情も抱かずその事実を受け入れて生きてきた。佐伯さんは二度と離したくない恋人を失いあてもなくこの世を生きてきた。田村カフカは、そんな2人が失われたもう半分の自分を取り戻すきっかけを作った。入口の石は開けられ、2人は出会った。長年溜まっていた「禍根の塊」はナカタさんの亡骸から這い出し、別の誰かに寄生しようと逃げるが、フツーに現実を生きている星野青年によってぶった切られた。

カフカは、一度は禍根の塊の中に埋もれ、二人の兵士のように森の奥深くの世界によどむことを望もうとするが、佐伯さんが現実の世界に引き戻そうと彼を諭す。しんどくなったら「海辺のカフカ」の絵をみてください、そこには私がいます、ナカタさんがいます。それを忘れないで。カフカは、これから父を許す旅に出ることを決意する。

ここからは感想だが、カフカの父が「私を殺してくれ」と言って、自分のわだかまりを誰かに解消してもらおうとする依存的な態度に、読んでいて嫌悪感がぬぐい切れなかった。カフカの父はいろんな人を自分の禍根の念に巻き込んだ。カフカ、さくら、大島さん、星野さん…。
我々大人は、若い人たちの未来に決して余計な負担を強いてはならない。自分の言い訳や都合を並び立てるくせに、若い世代には「現実世界で出会ういろんなものを許し、前を向いて生きていってほしい」などと言える立場ではないのでは。と、私は読みながら感じた。

そんなふうに受け取ったのは、今週怒れる環境少女トゥーンベリさんのニュースを見て、穴があったら入りたい気分になった私自身をカフカの父に見たような気がしたからかも知れない。

おわり


ご訪問いただきありがとうございますおねがい
素敵な週末をお過ごしくださいイエローハーツ

こんばんは。
何かと慌ただしい日々です。少なくとも10月に2つの運動会、その後学校のフェスティバルのお手伝い。職域での3つのお祭り。秋はそんなのばっかりで嵐みたく過ぎ去りそうです。
TOKIOのリーダーさん、結婚されましたね。おめでたい🎉です。

今日は泉鏡花『高野聖』の読書感想文です。
信州読書会さんのツイキャス読書会に提出したものです。
修行僧が、山奥である女に惹かれて嫁になってほしいと願うのですが、女には隠された秘密があります。
山奥の自然と、そこに住む人の営みに私は奥ゆかしさを感じました。



『高野聖 読書感想文』

修行僧である宗朝は、これまで女の元に来た男たちとは違っていた。
「何を聞かれても答えてはならない」という女との約束を忠実に守った。何も享楽のない山での生活、白痴の夫に優しく世話をする女。唯一の取柄という白痴の男が唄った清らかな声。不思議と心打たれて涙がこぼれ落ちる宗朝。

宗朝の心を打ったのは、女の白痴の男への献身だった。
女は白痴の男になぜこれほどまでに献身できたのだろう?それが私にとってのこの小説のテーマに思えた。

女は美貌で男をいざない獣にして食糧としたわけなのだが、そこには不具の夫を世話して食べさせなければならないという事情があった。
しかし、その生活から脱しようと思えばいくらでもできた。旅の男にも村を一緒に出ようと何度も誘いを受けたことだろう。けれど女はそうしなかった。
その理由として思い浮かんだのは、女の父(医者)が当時11歳の子どもだった男に施した手術のミスだ。少年は手術ののち3日出血が止まらず命は取り留めたものの、足の障害に加えて知的に重い障害を負った。そのことを女は父の代わりに償っているのかも知れない。この少年を見捨てるわけにはいかず、その運命を受け入れて生きていくということなのか。

山越えする旅人の目に映る大自然への畏怖の念と山奥にひっそりと暮らす女の持って生まれた豊肥妖艶さがあいまって、世間には「如意自在、男はより取って、飽けば、息をかけて獣にする」女に仕立て上げるのが面白味があったのだろう。
もともと女は美貌に加え、患者に触れると不思議に癒される魔力のような力があった。女性自身が自分の持つ妖しい魅力を最大限に生かし、生きるための手段として男たちをあやめてきたが、読み手の私には何でだろう、女に哀愁を感じてしまう。

女は宗朝の内面に、これまで出遭ったことのない美しいものを鋭く感じ取った。そして宗朝を放免した。女は宗朝との出会いで普段は奥深く封じ込めている純真な部分が、一時的に顔をのぞかせたのだろう。

明日からはまた女の家には、美貌にうつつをぬかす輩が迷い込んでくる。煮て焼いて食うのが
決して健全なルーティンではないが、それが女と白痴の夫と馬引きの生活だ。
あるがままの日常を受け入れているだけ。それが幸せかどうかなんて、3人ともふと立ち止まって考えもしないのだ。


おわり


ご訪問いただきありがとうございますおねがい
素敵な週末をお過ごしくださいイエローハーツ

こんばんは。
また連休が終わろうとしています。
今回も日曜の午後に出勤、そのまま帰宅後はなかなか気が進まなかった資料を作成しました。
あと変わった事と言えば、ユニクロでセミオーダースーツを注文したこと。とうとうスーツまでユニクロになってしまいましたが、質感といい、お値段といい、満足しています。

今日は、グレアム・グリーン『情事の終わり』読書感想文です。信州読書会さんのツイキャス読書会に提出したものです。
恋愛ものにあまり気持ちが乗らないことが続いているので、個人的に危機感を感じています。みずみずしい感性を得るには誰かに恋するしかないのでしょうか(笑)。




『情事の終わり』読書感想文

 

 

私流この小説のダイジェストは以下の通りです。

 

サラは、ヘンリーと結婚したがヘンリーとの生活が退屈に思えたとき、生きていることがむなしく感じられた。

そして出会ったベンドリックスと燃えるような恋に落ちた。この恋が永遠に続くことを願うサラ。ベンドリックスはサラを激しく求めるけれど、やがてヘンリーの元に戻っていくサラに嫉妬している。サラは後の手紙で語っている。私の気持ちを疑わないでください、私はあなたのことを愛しています。たとえ二人の関係はやがて退屈な夫との日々のように色あせていくことになっても。

 

ある日突然ベンドリックスから去ったサラ。サラがベンドリックスに会わなくなったのには理由があった。

二人の逢引きのさなか、空襲でベンドリックスが瓦礫の下に埋もれてしまった。が死んでしまったと途方に暮れたサラは、咄嗟に床にひざまずいて神に祈る。祈ることに慣れていなかったサラは、最初何に祈ったらいいのかわからないほどだった。

 

(引用はじめ)

「信じさせてください。私は言った。私はあばずれで偽物で、自分を憎んでいます。自分のことをどうにもできないのです。お願いだから信じさせてください(中略)これから信じます。彼を生かしてください、そうしたら信じます(中略)あなたが彼を生かしてくださるなら、私はどんなことでもします。彼のことを永遠に諦めます」新潮文庫p180

(引用終わり)

 

のちにサラは神に祈った自分を憎む。ベンドリックスが無事だったからだ。神と交渉してベンドリックスを戻してくれたからには、約束を守らなくてはならない。

だが、サラはベンドリックスと離れてから彼の元に戻りたい気持ちを抑えきれずに悲嘆にくれる。

あるとき珍しくひどく落ち込んで帰ってきたヘンリーがベンドリックスに会ったと言う。過去の二人の関係を悟ったヘンリーはこう言った。「私のもとから去らないでくれ、サラ。もう数年だけでも一緒にいてくれ」その言葉を前にサラはもう再びベンドリックスの元には戻れないことを確信する。

私は本当に神を愛することができるのだろうか?神は私の望みを受け入れてくれない。

サラは「私」という一人称でしか神を求めることができない自分に絶望している。そんな時に出会ったリチャード。リチャードは生まれ持った片頬のあざがゆえに神を信じないという。彼はこれまでどんな苦しみを味わってきたのだろうか?私は自分とベンドリックス以外の三人称の誰かを愛することができるのだろうか?試すようにサラは片方の頬にひどいあざのある男リチャードの頬にキスをする。しかしその瞬間吐き気を催してしまう。

 

最後に感想です自分の魂を神にささげて命がけでベンドリックスを愛したサラを私は尊敬します。サラは信仰と姦通のはざまの苦しみに身もだえた。3人の信仰い男性を前に、あらん限りの紙への忠誠を誓おうと努力したサラは殉死に近い。3人の男性の不甲斐なさが余計に対照的でした。

 

 

おわり

こんばんは。
3連休が終わろうとしています。
暑過ぎる連休でした。私はちょっと仕事に出たり持ち帰りの資料作成をしたり、今日は一日断捨離でした。ブックオフに本を売りに行ったら2300円の値段がつき、喜んだのもつかの間、娘にゲームソフトをねだられ…。やっと後回しにし続けていたスキーウェアをクリーニングに出したのはいいですが、まあ高くつきました。


今日は、谷崎潤一郎『春琴抄』の読書感想文です。
すごいヘビーな恋人同士の話でした。佐助は春琴のために尽くし過ぎな感が否めず、ちょっと引いてしまいました。
そして悲しいことに、恋愛の心理に年々疎くなっているのを感じます。心の艶やかさが失われているのかしら。



『佐助の献身』


もしも春琴や佐助のように視覚から得る情報なしにどうやって生きていくのだろう?

目の見えない世界で生きていこうと思うと、足りない情報を想像で補うしかない。そのことに割くエネルギーは膨大だ。福祉の現場では、アイマスクを装着し、見えない世界を体験するプログラムがあるが、普段使わない神経をフル稼働させるせいか、終わった後ヘトヘトになる。


この小説は、目の見えない春琴とその付き人である佐助の世界をまるで抽象画を読み解くように表現していると感じた。

私が最も気を取られたのは、春琴から撥で殴られたり、感情の起伏にまかせて口を利かなかったり、様々な精神的苦痛を受けながらも、なぜ佐助は耐えられたのか?ということだ。

私はこう行きついた。佐助にとって、何をされてもただただ首を垂れて従うしかない、それほどまでに春琴は美しかったのだろう。厳しくわがままな反面、自分の身の回りの世話なしには生きていけない春琴のギャップに佐助はますますいとおしくなるばかりだった。

もう一つ、春琴が盲目により自分の知らぬ第六感の世界を持ち得ているということへの佐助の複雑な思いもあったのではないか。知らぬ世界を生きている春琴は佐助にとっていつまでも自分の手の届かない人だった。そのもどかしさが佐助の感情をますます鼓舞したのかも知れない。


佐助のように、男性が女性に献身する小説は珍しい。

全体が、とてもエネルギーに満ちていて、圧倒されてしまった。


おわり



ご訪問いただきありがとうございますおねがい

素敵な夢が訪れますようにブルーハーツ


おはようございます。

こちら湖国は台風がそれて、その分今日は猛暑になりそうです。

昨日で親知らず抜歯から1カ月経つのですが、右上の頬骨が貫通しているそうで、ぱぴぷぺぽを発語すると骨にズキンと染みて痛いです。こればかりは予防できず、「痛っ!シマッタ(~_~;)!」を繰り返しています。
走ったり跳ねると響きます。
親知らずがこんなに影響するなんて。
ひとまず骨が出来てくるまでに3カ月、完全に抜歯の穴が塞がるのに6カ月かかるそうです。
あー、お正月には美味しくおせちがいただけるといいなぁ。

表題の件ですが、この夏、2回見知らぬ誰かに助けられました。1度目は、娘の短期スイミング教室の受講票。ああ困った!入れていたはずの財布にない。どっかで落とした?これがないとスイミング教室に行けません。
お盆休みをすぎて、スイミング教室から電話が。受講票の落し物が警察に届いているので取りに行ってくださいと。警察に行くと、UNIQLOの最寄の店舗から届けられたとの事。ああ、よかった!
お店にお礼の電話をしました。店員さん「ご丁寧にお電話いただいて、届けた落し物に何か不備でもあったのかと思ってしまいました」と、恐縮されてました。

2度目はとあるテーマパークで、気付くと娘の帽子がない。周辺を探したり何度かスタッフの方に尋ねたのですが、見つからず。「念のため帰りにインフォメーションを訪ねてみては?」と言われ、閉館の20時にダメもとでインフォメーションに寄ったところ…届いてました!

落し物が戻ってくる喜び。
単に持ち物が再び手元に戻ってきたこと以上に、見知らぬ誰かが、知らない私のことを思い、自分の時間を割いて届けてくれた。そのことに感謝感激です。

私も落し物を見つけたら、拾って届けよう。

誰かからいただいた良心を無駄にしないように…。
そんな夏の経験でした。

ご訪問いただきありがとうございますおねがい
素敵な週末をお過ごしくださいグリーンハーツ





こんにちは。
台風の影響か、暑い日中です。
昨日、残業で夕食作りが間に合わないので、職場近くから自宅の最寄りのHottoMottoに唐揚げ弁当3つ注文して取りに行ったら
「ご注文をお伺いしていません」と。
携帯の履歴を見ると、職場近くのHottoMottoに注文の電話をしていたことが判明し、また片道40分かけて職場近くのHottoMottoにもどり・・・
帰ったら唐揚げ冷め冷めでした。
ていうか、まだ唐揚げを食べられるほど歯が回復していないことをすっかり忘れて、食べたい気持ちだけで注文している自分が情けなかった昨晩でした。
 
今日は、フォークナー著『八月の光』読書感想文です。8月最終週の信州読書会さんのツイキャス読書会に提出したものです。個人的にはクリスマスの境遇に同情してしまい、切ない読書体験でした。
 
 

クリスマスはなぜジョアナ・バーデンを殺さなければならなかったのか』

 

クリスマスは、孤児であり、自分に黒人の血が流れている嫌疑を抱いて生きている。それが彼の持って生まれた運命だった。孤児院の日々も、養父に育てられた日々も、ジョアナ・バーデンの敷地で過ごした日々も、クリスマスにとっては常に仮の宿でしかなかった。相手が自分に何らかの期待を抱いた途端に「いつ殴ろうか・・・いつ逃げようか」という気持ちが頭によぎる。そして、自分に迫りくる者を殴った。加減なく殴った。自分自身を表現する手段暴力しか持ち得ていなかった

文字を書くことに苦心する場面があったと思うが、クリスマスは教育を受けていない。そのため自分が背負った運命に太刀打ちできまでの表現力や想像力を持ち得ておらず、宗教とう精神世界に全く共感できず、見えないものに救いを求めることより目の前の現実をやりくりすることに没頭するしかなかったのではないか。

 

ジョアナ・バーデンは、そんな彼に、祈り、自分対話することを求めた。ジョアナ自身が自分の犯した罪に罪悪感をおぼえたからか、突然大学に行き教育を受けることや自分の仕事の代理人としてクリスマスの生計の立て直しをはかろうとするのとても性急

ジョアナ・バーデンはクリスマスとは何もかも対照的な生活を送ってき人だ。人種差別撤廃論者という世間から孤立した、限られた世界観の中で生きてきた。その純真さゆえに、彼女とは対照的なクリスマスとの折り合いのつけ方があまりに不器用に思えた。

 

クリスマスにはジョアナ・バーデンは狂った人間にしか映らなかったのではないかまるで自分を鞭で殴った養父のように得体のしれない「神」をふりかざして自分をコントロールしようとする者彼はジョアナに憎悪を覚え力でねじ伏せるしかなかった。ジョアナ・バーデンの死は当然の帰結なのかもしれないと感じたしかし、二人ともそれぞれの背景があるだけに残念で、悶々とした気持ちが残った

 

クリスマスの死の場面は、彼自身がたどった道のりと同じように非情でセンセーショナルだった彼が少しでも癒されたのではないかと思われる場面が頭に浮かぶ最初にベッドを共にした女に女性の体のことを教えてもら場面ジョアナ・バーデンがその日の出来事無邪気に話すのおとなしく傍で聞いてい場面。あるいは白ワイシャツと麦わら帽子でおが屑をシャベルで掻き出していた労働の日々。宗教から産業に移る世の中の動きにあいまって、働いてわずかなお金でつかの間の快楽を得るというルーティンに彼は少しでも愛着を覚えていたのだろうか?

彼自身が一瞬でもこの世で幸せだと思える瞬間があったなら。

そして、あの世で安らぎが得られることを願う。

 

おわり

 

 

ご訪問いただきありがとうございますおねがい

素敵な週末をお過ごしくださいラブラブ