人が人生でもうダメだと思うときはどんなときでしょうか?たとえば、、

 

  ・考えられる手を尽くして、それでもダメだった時

  ・やることなすことが裏目で、何一つ結果につながらない時

  ・誰一人として自分い味方してくれる人がいないと思える時

  ・自分の能力、未来に絶望した時

  ・体を悪くして立ち上がる元気もない時

  ・ビジネスで失敗し大きな負債を抱えた時

 

こんなふうな時、人はもうダメだと思うのかもしれません。

 

しかし、怒られるのを承知であえて申し上げます。「おめでとうございます」と。

 

なぜなら、大きなチャンスが巡ってきたということ、だから。

 

ふだん私たちは、自分と思っている自分、これを「自意識」といいますが、その自意識がいろいろな方法や手段の利害、損得を評価判断し、決定を下します。

 

物心ついたとき以来、ずっとこの自意識が自分であり、「私(わたし)」だったと思います。自意識が勉強をし、学校を決め、試験を受け、進学しました。自意識が会社を決め就職したのです。自意識が好きになった相手に告白し、結婚を決めるなどし、人生を生きてきたわけです。

 

まぁ当たり前ですね。そして、自意識が主人公として人生を生きていると、そう思っているんです。

 

しかし、その自意識、自分と思ってる自分は、実は本当の自分ではありません。そんなバカなと思うかもしれませんが、実際のところそうなのです。

 

自分の中のもう一人の自分と言ったらいいでしょうか。その自分こそが本当の自分です。本当の自分は魂と呼ばれることもあります。

 

しかし、本当の自分の声はとても小さく、普段自意識が忙しく活動していると、その声に気づく機会はなかなかありません。

 

ところが、自意識がもう打つ手なしという諦めの境地に達し、ピタッと立ち止まったタイミングこそ、本当の自分が姿を現す時なのです。

 

 

 

 

もうだめだと思うとき、すごく苦しいですよね.なぜ苦しいのか?それはうまくいかないという思いがあるからです。

 

しかし、そのうまくいかないという思い、それは本当でしょうか?どうしてわかるのでしょうか?

 

実のところ、物事にはプラスとマイナスの両方が存在するので、常にニュートラルです。これは物理法則のようなもので、常に成り立ちます。

 

ところが、自意識、つまり、自分と思ってる自分が、何らかの物差し(評価基準)によって、いい、悪いを判断します。その物差しとは、私たちが生きていく中で身につけてきた固定観念、価値観と呼ばれるものです。

 

固定観念を通すと物事の一面しか見えなくなります。そのような制限された条件下で抱いた考え方がk私たちに苦悩をもたらしているのです。

 

「人間万事塞翁が馬」という中国の故事があります。物事の結果は連鎖して続いていくもので、現時点ではいいも悪いも評価できないということを言い表しています。それは隠れた面が時間の経過とともに明らかになるという見方もできるでしょう。いずれにしても、神でない人間には知りえないところです。

 

だとしたら、固定観念という狭い見方や将来を見通すことができない自意識で、あれこれ悩んで苦しむことに意味はあるのでしょうか。

 

とはいえ、小さい頃から慣れ親しんできたパターンから抜け出すことは簡単ではありません。

 

しかし、もうダメだ、打つ手なしと絶望し手放した瞬間、自意識はお手上げ状態となって、自分を明け渡す準備が整うのです。

 

 

 

 

この時に、必要なことを行い、余計なことをしなければ.本当の自分、大いなる自分が顔を出してくるということになります。

 

本当の自分のメッセージを捉え、それに従うことで、人生はうまく転がり始めることになります。なぜなら、本当の自分は「神の分けみ魂」という言葉のとおり、宇宙の本質である普遍意識に繋がった存在であるからです。

 

もちろん何の苦労もなくなるという意味ではなく。魂に沿って生きることは時に苦しく、大きなチャレンジを伴うことがあります。

 

しかし、それが生まれてきた目的につながっていなら、自分にとって不幸であったり人生をムダにすることになるわけがありません。

 

ですから、もうダメだと思ったときは、深呼吸をして、ダメだと考えている自分の考え、その考えは本当にそうかというふうに、自分の心の奥深くに静かに問いかけてみてください。

 

問いかけて、問いかけて、問いかければ、必ずなんだそうじゃなかったと言う答えが返ってくると思います。

 

そこからが始まりです。魂とのつながりを取り戻して生きる人生の幕開けです。

 

 

2022/9追記

かなり以前に書いた記事ですが。最近、これを実感する機会がありました。

 

5日間かけて、南アルプスを縦走したんですが、毎日平均標準タイムで10時間以上は歩くというかなり過酷な行程でした。

 

レジャーではなく自己鍛錬として行なっているので、精神的、体力的にかなりギリギリのラインを狙っています。

 

なので、日々気がかかりな問題が起きていました。たとえば、GPS付き地図の入ったスマホを麓の車中に忘れる、体力的に消耗して消化力が落ち腹痛に悩まされる(トイレは4時間ごとにしかない)、地下足袋で歩いているので足先の爪を負傷、そもそもゴールまで歩き切れるのかなどなど。

 

なんの気がかりもなく、楽しく歩ける時間なんてほんの少しです。

 

問題が起きるたび、自我はドキドキして不安になりますが、そこにハマってしまうと、エネルギーを消耗したり、体にダメージを負ったり、判断を誤ったり、さらに状況が悪化してしまいます。

 

そういう時、ああこれは我(が)が反応しているだけと思って自分の中心にいると、心が安らぎ、気づきだったり、学びだったり、かならず得るものがあります。

 

起きることには全て意味があるとか、超えられない問題は起きないとよく言われますが、本当にそうだなと思います。

 

最も大きく、最も絶対的な存在に護られているのだから、非力で小さな自分が守ったりなんとかしようとしなくていいんだと、一段と深く腑に落ちた体験でした。