ジョンが芭蕉に出会った日 木村東介
ジョン・レノンが日本の古典に深く関心を持っていたことは、多くの人々によって知られている。ヨーロッパ人やアメリカ人が日本に関心を抱くのは、普通、東洋の一部としての日本である。ところが彼の場合はそうではなかった。何度も訪れている日本で、どのようにして、古典に出会ったか?その最初の出会いを証言してくれる人がいる。 木村東助、77歳、「羽黒洞」経営。
「この階段をねぇトン、トン、トンと二階に上がっていって、いろんなものを見せたんだょ」。木村氏は天神下の自宅で火鉢にあたり、茶を飲みながら話してくれた。
(インタビュアー 波田 真)
その当時ねぇ、九年前だったかなあ。 私はジョン・レノンについてよく知らなかったんですけれどねぇ、仕事から帰ってくると、家の娘が「ジョン・レノンが来てるのよ」って言うんだよねぇ。小野洋子も一緒だというけれど、それが誰なのか私は知らんかったですねぇ。浮世絵の春画とか、そういうような物を見たいということで来るんですけど、今までの例からいくとたいした客はいなかったから・・・・・。多少煩わしいなあと思いながら店に出て行ったんです。
店は日曜日もやっていて、1月の23日の日曜日だったと思いますねぇ。午前の11時頃でした。店に行って二人に会ったけれど、まあ特に尊敬すべきほどの者でもないと最初思いましたがねぇ。とにかく店では客の出入りも多いし、ゆっくりと絵を見てもらえないから、この自宅の二階につれて行ったんです。
いろいろと絵を見せると「HOW MACH?」と聞くから、いくらいくらだと答えると「OK」という。次にまた「HOW MACH?」、「OK」という具合にね、次々に高いとも安いとも言わずに「OK」と決めていくんだねぇ。床の間にあった白隠の絵やそれから仙涯なんかもね、ジョンは日本語を話さないですねぇ。それに、たとえば白隠の絵に何が書いてあるかもわからないわけです。
これはいくらとジョンが聞くと、小野洋子がそれを説明する。その姿がねぇ、母親が自分の愛児に対するようなというか、弟に対するのうなというか、愛情に溢れているんだねぇ。ジョンをいかにも大事にしているようでしたねぇ。説明するだけで、買えとかそんなかんとかはひとことも言いませんでした。ところが見ると「OK」と言う、次々にね。彼が良い目を持ってる客なのか頭がおかしいのか、私は判断に苦しんでいましたよ。
そのうちに芭蕉の有名な俳句「古池や蛙飛び込む水の音」の短冊をみつけると、目の色が変わってきたんですねぇ「HOW MACH?」と聞くから「二百万円」と答えると「OK」と言う。こういう類のものは他にあるかと聞くから、良寛や一茶の短冊を見せると、見るものことごとく「OK」、「OK」と言うんだねぇ。俳句の心がわかるのかなぁ?と私は疑っておったんですが、その芭蕉を買ったときからすぐ抱いて持っているんですね、大事そうにこう抱いて・・・・・。常に抱いていて離さないんですねぇ。おかしいなあと思ったんですがねぇそれを見ていて・・・・・。そしたらこう言うんですよ。「私がこれを買って海外に持っていくことを、どうか嘆かないでくれ。私はこの芭蕉の句のために、ロンドンに帰ったら日本の家を建て、日本の茶席をつくり、日本の庭をつくり、日本の茶を飲み、そして床の間にこの軸を掛けて、日本人の心になってこの芭蕉を朝・夕見て楽しむから、どうか同じ日本人に売ったと思って嘆かないでくれ」と。私は嬉しかったですねぇ。いい人が買ってくれたと思いました。
それから一時間半ぐらい時間があったんで、どこでどうしようかと思ったんですが、歌舞伎座へでも連れて行こうかと思ったんです。一幕でもいいから、華やかな歌舞伎を見せてやりたかったんですよ。とにかく後ろの席で一幕だけでも見せてくれと、キップを三枚買って中に入ったんだけど、舞台はちょうど歌右衛門と勘三郎の「隅田川」を演っていて、場内は真っ暗。華やかどころか陰気な舞台でねぇ。セリフがなくて、清元で演っている、そんな場面でした。こりゃ困った。華やかな歌舞伎を見せたいと思っていたので、「出ましょうか?」と言おうとしたら、ジョンの頬にとめどもなく涙が流れ出てるんですねぇ。とにかく泉のように出ている。それを小野洋子が一生懸命拭ってやっている。それを脇で見ているとねぇ、ほんとうに日本人でなかったらできないような女の優しさなんですねぇ。
子供をさらわれた母親が日夜狂気のように探して、流れに流れて隅田川河畔まで来る。そしてようやく船頭から、殺された我が子が埋まっている場所を教えられると、その土饅頭の下にあるわが子に母は泣き崩れるというのがストーリーなんですが、誘拐されて殺されて、というそのストーリーがジョンにわかるわけないし、清元もわかるわけないし、セリフがもちろんわかるわけでもないですしねぇ。それがわかる、ということなんだねぇ、ジョンには、日本人よりもわかってるんだねぇ。結局、目で見てるんじゃないんですよねぇ。
歌右衛門の演技がまたそれなんだ。型で演じてるんじゃない、心で演じてるから場内を伝わって、ジョンの魂の中にどんどん流れ込んでいくわけだねぇ。それがわかって、母親の気持ちがわかって涙をいっぱいにしていたんですねぇ。そこで始めて、芭蕉がわかったジョンの気持ちというものがわかったですねぇ。芝居は目で見るものではない。魂で演ずる役者の演技は、魂で見るものだということなんですねぇ。
すべて絵でも書でも句でも歌でも、人間なんだねぇ。芭蕉がいいというのは、芭蕉という人間がいいわけなんだ。それを見る人が同じようにいいと、我々が通訳をしなくても自らわかる、そういうものなんですねぇ ”その人”なのである、と思いますねぇ、芸術というのは・・・・・・。作詞、作曲も頭や知恵でできるものでもない。魂でつくるんでしょうねぇ。歌うときも同じで、魂で歌うんだろうねぇ、ジョンは。それは僕らにはわからないけれど、そうなんでしょうねぇ。惜しい人が殺されてしまったと思う・・・・・・。音楽を通じて、もっともっと理解し合うことができたと思うけれど、残念な人が死んでしまいましたねぇ。35年前の日本は鬼畜米英なんて言ってたけれど、ほんと、バカみたいなことだねぇ、ジョンのように、心や魂が通じるという日本人がいまいったいどれだけいるのか、と思うんですよ。追悼をやるというけれど、日本じゃ歌右衛門ぐらいしかいないんじゃないかと思いますがねぇ。ジョンの霊を慰めるというのなら・・・・・・。
ジョンが「ぜひ歌右衛門に合わせてくれ」と言うので、まあ私は歌右衛門さんとも懇意にしていましたから、「隅田川」が終わってから楽屋に行ったんですねぇ。その時に奈落を通って行ったわけですが、奈落はどこも汚いですからねぇ。私は「すみません。こんな汚いところを通って・・・・・・、」と言ったら、「私は世界中にいたるところをまわって歩いていて、これ以上に汚い奈落を知っているから、どうぞお気遣いなく。」と言うんですねぇ。そして楽屋で歌右衛門に会った。ちょうど着物を着替え、お白粉をおとしているところだったんですが、「こんな格好でかまいませんでしたら、どうぞご案内願います。」と言うんで、入ったんです。歌右衛門という人は極めて神経の細かい人で、ふだんはそんな時には人に会わないんだけれど・・・・・・。そして「ぜひロンドンに来て「隅田川」を最初から演って欲しい、非常に感激しました。」と言ってるんです。その時は一種の儀礼だと思ってましたけど、ちゃんとその時の約束は実行されました。後でちゃんとねぇ。
そして、この後は若手で人気NO.1の海老蔵の出番だからと、もう一番見ていくことになったんですねぇ。確か「神田祭」だったと思うけど、非常に華やかな舞台でしたねぇ、それこそ、歌舞伎とはかくのごとし美しいといわんばかりの舞台だったんですが、ジョンは全然見る気がしない。「ノー」と言う。目で見るものは観る必要がない、魂で見るものでない限りジョンにとっては見る必要がないんですねぇ。
最初私はねぇ、外国の人に、精魂込めて集めたものを安易に渡したくないと思っておったんですがねぇ。だんだんと気持ちが変わってきて、こんな心の美しい人にはほんとうにいいものを見せてあげたいと思うようになりましたねぇ。この商売を始めて五〇年になりますが、説明の要らなかったお客というのはジョンが初めてでした。
日本では芸術といえば、貴族とか権力とか財力とかにご機嫌をとったものが勝れていると思い込む習慣があります。昔だったら皇室とか将軍とか大名とか旗本、神社、仏閣とか、そういうところに献納したものが勝れていると思われていますから、絵がわかる人は少ない。見る人にねぇ、機嫌をとってる芸術じゃなきゃいいものだと思わない。ところがジョンは機嫌をとってるものなどの見向きもしないわけです。もし私が、松に鶴だとか梅に鶯だとかねぇ、日本ではいいなんてされてるものを見せていたとしたら、私はジョンにバカにされていたでしょうねぇ。
私が扱っているものは民族とか庶民の芸術です。だから農家の物置にあったとか、そういうものはみんな感激しないわけだ。
私の生涯で最も共鳴してくれた人が、元ビートルズのジョンだったというわけですよ。仙涯や白隠や芭蕉、一茶や良寛に誰よりも共鳴してくれた人がロンドンにいたわけで、しかもくり返すけれど、「嘆かないでくれ」という、そういうことの言えた人がジョンだった。まったく、まあありがたい話ですよ。
その後はなかなか会えなかったですけれど、日本の芸術品を単に集めてみたかったというのではなくて、もっともっと彼の音楽を際限なく広げていくために、日本の芸術をもっと見たかったんだと思いますねぇ。たんなる鑑賞でもなければコレクトでもない。だから全世界を通じてたいへんな人だったんですねぇ。日本人だってわかりゃしないようなものを、ちゃんと知っていた。博物館の人間でもわからないものをですよ。ちゃんと見抜いていてた。まぁ、たいした鑑識ですよ。言うならば神様だえねぇ、神だよ。
昭和56年2月発行「宝島」2月臨時臨時増刊号 JOHN ONO LENNON より全文。
ビートルズとして来て以来のお忍びで洋子とともに来日した若干31歳のジョンが何に興味をもち、どこで何をしたのか?
この記事は、都内の骨董品店を訪れたジョンの生の記録です。そこでは、マスコミというフィルターを通さずに、素のジョン・レノンが店主の口から語られます。
始めは、ジョンのことなど知らない店主は、たいした客ではないと思いながら、煩わしく感じながらジョンと接していきますが、たった数時間の間に、尊敬の念を抱くようになるなるまでの店主の心の変化が、克明に描かれています。
昔の民家にあったような、ものを収集して売っている店なのですが、なぜ、ジョンがそのような古美術品屋を訪れたのか?
店主は、一般的に学識のないお客に対して、それがどのようなものなのかをいちいち説明するのですがジョンは、何も説明を求めずに次々と美術品を買っていきます。
そして買ったばかりの松尾芭蕉の俳句の軸を、胸にずっと抱いたまま買い物を続けていきます。
”この人頭がへんなのか”と店主が、首をかしげていると、ジョンがその事に対して返事をします。
「私がこれを買って海外に持っていくことを、どうか嘆かないでくれ。私はこの芭蕉の句のために、ロンドンに帰ったら日本の家を建て、日本の茶席をつくり、日本の庭をつくり、日本の茶を飲み、そして床の間にこの軸を掛けて、日本人の心になってこの芭蕉を朝・夕見て楽しむから、どうか同じ日本人に売ったと思って嘆かないでくれ」
”主人に対する思いやりの深さ”と”日本人(松尾芭蕉)に対する最高の尊敬”の念を感じた店主は、急にうれしくなります。
そこで、歌舞伎を見せてあげたいとおもい、歌舞伎座につれていきます。
華やいだ、歌舞伎の世界を見せてあげたいと思ったからです。
しかし、そこで繰り広げられる舞台は、見せてあげたいと思ったものとはほどとおい「隅田川」でした。
しかも、わが子の亡骸をさがしあてるとても暗い場面でした。
ましてや、日本語の話せないジョンに、このシーンが理解できるはずもなく不適切だと思い「出ましょうか?」と声をかけようとしたところ目撃したのは、とめどもなく涙を流すジョン・・・その涙を拭う洋子・・・・・でした。
歌右衛門の魂の演技が、波動となって、ジョンの魂を揺さぶりました。言葉など必要のない瞬間を目撃しました。
”そうか、この人は 魂で物を見ることができるんだ! だから、説明など一切要らなかったんだ”
今までの客でこんな人はいなかった
私の収集した美術品を何も語らずに理解してくれた人は日本中どこにも誰もいなかった
この時初めて、ジョンのことを理解した店主は、ただのお客からまるで神様のようなお客として尊敬の念へと変わっていったのです。
ジョンのビートルズ時代の歌に「アクロス・ザ・ユニバース」というものがあります。
歌詞の内容を要約すると
「言葉という波動が発せられたとき
それは、喜びや悲しみの感情となって、どこまでも、どこまでも遠くに飛んでゆき
やがてそれは、この果てしのない宇宙をも超えてゆく・・・・・
私は私そのものであるので、誰も私自身を変える事はできない 」
まるで、瞑想の世界を歌詞にしたような、この歌詞は、松尾芭蕉の影響を受けてできたといわれています。
なぜ、ジョンが世界中の若者のリーダーでありえたのか?
なぜ、多くの人々にリスペクトされる人物であったのか?
その謎がこの記事を通して、理解できたような気がしました。
今回久しぶりにブログを更新しましたが、その理由は 後世に残さないといけない大切な記事だと思ったからです。
※ジョンは洋子と共に1971年1月13日にアメリカ客船「プレジデント・クリーブランド号」にて横浜港にて来日し1月25日帰国。同年の9月6日にアルバム「イマジン」を発表している。
※「ロンドンに帰ったら日本の家を建て・・・」ロンドン郊外のアスコットの邸宅だと思われる。
※タイトルが「ジョンが芭蕉に出会った日」となっているが、この来日より前のビートルズの作品やソロアルバム「ジョンの魂」ではすでに芭蕉の影響が見受けられる。