「愛」ってなんだろう? その2 | 半兵衛のブログ

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前回から「愛」とは何か?をテーマにしているのですが

まず、「愛」という言葉は中国から輸入された外来語であり、「枕草子」や「源氏物語」では「愛」という言葉は使用されておりません。

近代に入り、西洋での語義、すなわち英語の「Love」やフランス語の「amour」などの語義が導入された。その際に、「1. キリスト教の愛の概念、2.ギリシア的な愛の概念、3. ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、現在の多用な用法が作られてきた。<ウィキぺディアより>

日本人にとって一番初めに考えないといけない事は、「愛」という概念はキリスト教伝来とともに変わっており、仏教で説かれる「愛」ごちゃまぜになっており、多くの現代の日本人が考えている「愛」と
はキリスト教的なの愛の事なのです。
「私はクリスチャンじゃありませんが?」という人が多数だと思いますが、

仏教では「愛」とは異性、お金、名声などへの「執着心」の事であり、煩悩(ぼんのう)のひとつとして考えられており、むしろ否定すべき事柄とされていました。

「愛より憂いが生じ、愛より恐れが生ず。愛を離れたる人に憂いなし、なんぞ恐れあらんや」法句経より
どんな喜びも、どんな幸福も全て「さよなら」があります。
そのことを理解せずに盲目的に愛に執着すれば自分を傷つけるか、相手を傷つけることになります、だから釈迦は執着心を捨てなさい、もっと身軽になりなさいと教えています。

※煩悩とは悪魔の誘惑の様なもので、仏教では108あるとされています。

[漢訳仏典における〈愛〉]  
漢訳仏典には、大別して煩悩の汚れをおびた愛と煩悩の汚れをおびない愛の2種がある。
前者は、恩愛、渇愛、貪愛、欲愛、愛着などと熟して用いられて、もっぱら煩悩の側面を表し、十二因縁の一つたる愛もこの意味である。
したがって、仏典においては、そのような盲目的執着をなくせ、と説いている。
後者は、法愛、愛楽(あいぎよう)、慈愛、また愛語などと熟して用いられるもので、このような意味での愛は、仏教語としては、むしろ〈慈悲〉の語で適切に言い表されることが多い。
したがって、中国仏教の展開にあたっても、〈愛〉をしりぞけ〈慈悲〉をすすめるのが一般であった。
たとえば《弘明集(ぐみようしゆう)》に収められている釈玄光の〈弁惑論〉には、ゆらい人間は色塵には染まりやすく、愛結(ぼんのう)は消しがたいものであるとあり、劉詠(りゆうきよう)の〈滅惑論〉には、妻は愛累(貪愛のわずらい)であり、愛累は神(こころ)を傷つけるから愛を滅さねばならぬ、と説いている。    礪波 護<仏教クラブより>


宣教師が「神は愛である」と民衆に語ったときは
平均的な日本人には到底理解できなかったようです

ですから、かつての日本人は「愛」の意味を仏教の「愛」として理解していましたが、西洋文化が広まると「愛」の意味に変化が現れます。

キリスト教の説く「愛」とは人に良くする事を指すからです。

「エロス」 έρως érōs 肉体的な愛。主に男女関係の愛。対象の価値を求める愛。自分本位の愛。見返りを求める愛。
「ストルゲー」 στοργή storgē 従う愛。尊敬を含む愛。親子関係や師弟関係にある愛。
「フィーリア」 φιλία philía 友情愛。自分を与えることで他人を生かす愛。
「アガペー」 αγάπη agápē 無条件の愛。万人に平等な愛。神が私達に与える愛。見返りを求めない愛。キリスト教でいう一般的な「愛」。<ウィキペディアより>



愛とは何か?漠然と考えていましたが
宗教によって意味が全く違い、そして知らず知らずのうちにキリスト教説く「愛」が日本人の思う一般的な「愛」になっていったという事です。
宗教恐るべし!ですね

ちなみに仏教での「慈悲」がキリスト教の「愛」に近い教えだそうです。

慈悲は、愛憎という対立を超えた、見返りを求めることのない絶対の愛の姿であり、しかも一切の生きとし生けるものにまで及ぶことを理想としています<浄土真宗の布教伝道を研究する会より>