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THE CLEARING DAY

わが家のお掃除を、本腰を入れて始めたのだ!!

こころもからだもくりあ~でいくよ!!



休みの日は、意識の混乱が表に現れやすいようだ。


もうどうだっていいや、っていう、放棄の態度を選びそうになって、


でもなんとか、今、こうして、パソコンを開きました。




今まで続けてきたことを、放棄しそうになるから、


自分に誠実であること、正直であることを最優先に!


そんなメッセージを受け取っていても、放棄しそうになるくらい、


わたしは自分の中にあるもうひとつの声に、耳を傾けていたってことだね。




意志とか決意とか、そんなもの簡単に巻き込めるくらい、


潜在意識のパターンって、けっこうくるね。


戦おうとしても、相手が見えないので、


気づいたときに、はっと、目を覚ますしかない。




・・・ちょっとまって、わたし今、どこにいた?


いま、どういう声と同化していた?


同化している時っていうのは、文字通り、それとひとつになっちゃっているから、


「同化している」っていう、客観的な視点さえ存在しない。




だから、「目を覚ます」しかない。


夢の中でもがいている状態から、


はっと目を覚ましたら、現実に戻るでしょ?


あれと、全く同じ感覚。


ちょっとまて、これは夢?くらいの勢いで、


思い切って、目を覚まさないといけない。


覚まさなくてもいいけど、そのときは、


自分が作り上げた「夢」に、自分を巻き込ませることになる。


おそらく、それは本意じゃないから、


まずは、目を覚ますしかないらしい。




まじ、あぶなかった~。


頭の中が、ぼーっとしてきたなと思ったら、


まず、明晰であることを求めるといいね。


ぼーっとしてきた、つかれちゃった、的な感覚に付随して、


自分の中にあるパターンが、ぼん!と一気に出てくると、


一気に、巻き込まれてる可能性がある。


巻き込まれていることにさえ、気づかずに。


気づいていたとしても、侵食され続けている状態になってたり。




ぼやーっとしてきたら、明晰さを求める。


これが、すごく大事なことになるのだと気づきました。




理性が、味方になる瞬間ですね。


ありがとう!おかげで抜け出せたよ!


I LOVE YOU!


油断なく、地に足をつけて、いきますよ。



☆☆☆







うわあ、今日の日付ぎりぎりだ!(笑)


すべりこみで、書いちゃおう!





存在を、聴く。


静けさの中の、存在の音色を聴く。


そんな感覚が、昨日から特にありますね。


実際に、音色がするわけではないんだけれど、


静かに、静寂の中に、感覚を澄ませていくと、


そこにある、存在なき存在に出会う。


そんな感じ。


わかる?(笑)




なんと言ったらいいものかなあと思っていたら、


愛読書の中に、まさに的を射たり!という言葉を発見!!



「深層の命の流れ」



この言葉を見つけた時、感動したね。


わたしは、命、という言葉を、


生死に関わるもの、という意味ではなく、


多様に変化しうる可能性を持った存在、


といった意味合いで使うことが多い。


生きる、死ぬ、だけの二元性じゃなくて、


その間にある、多様な可能性を楽しむことのできる存在。


とても色彩豊かなイメージね。



だけど、その源をたどると、


とてもシンプルな、ひとつのなにかに還る気がするの。


私の中で、そのイメージで浮かんでくるもののひとつは、


「水」なんですね。


生命が生まれた海の記憶が、


遺伝子に残っているのかは知りませんが、


水とか、酸素、空気とか、塩とか、


身の回りにあふれているけれど、実はこれなしには、生命は存在できない、


というものがありますよね。


どんなに複雑なコンピューターを使いこなす人たちだって、


水を一滴も与えられなかったら、酸素を何分か与えられなかったら、


少なくとも、その肉体に生命を流れさせ続けることは不可能になる。


つまり、死んでしまいます。



わたしたちは、肉体的に見ても、


とてもシンプルな条件のもとで、生かされている、ということを感じています。


静けさとか、存在、というのは、


目に見えるものではなく、内側の感覚で感じていくもの。


目に見えて主張するものでもなければ、生活を脅かすものでもない。


ゆえに、無視されがちな何か。



だけど、そういう静かな、いつもそこにある何かが、


私たちの存在を、根底から支えてくれている、


そんな気がするのです。


古代の人は、そんな感覚に名前をつけたくて、


「神」という名で、それらを呼んだのだろうか、


なんてことを考えていたら、


私の中のかみさまの定義が、ふわふわっ!としたものになって、


とっても愉快な気持ちになりました☆




「深層の命の流れ」




この言葉で思い浮かぶイメージは、洞窟の中の湖。


けれど、実際は湖ではなくて、


すべての場所と、すべての存在とつながっている水の流れ。


このイメージに名前をつけたくて、


「深層意識」 「潜在意識」という名前で呼んだのだろうか、と思ったら、


ちょっと、アカデミックな気持ちになりました(笑)




今、頭がおしゃべりをし始めたので、


静けさからは離れてしまった感じがするけれど、


私が離れてしまっただけで、静けさはいつでも、そこにあるのでしょう。


その静けさが、わたしを静かに存在させてくれる時間を、


わたし自身が、自分に許せるように、


心を澄ませて、生きていきたいと、感じています。



☆☆☆



帰ってきて、一番最初にしたことは、お昼の食事作り。


れんこんをすりおろして、玉ねぎとしいたけを炒めたものを加え、


パン粉の代わりにオートミールをいれ、乾煎りした小麦粉を混ぜる。


丸くまとめて、弱火でじっくり焼くと、もちもちのれんこんハンバーグの出来上がり。


つけあわせに、親戚のおじちゃんから送られてきたブロッコリーをさっと茹でる。


この間、ビュッフェレストランのひな野でいただいたごまドレッシングを、


ハンバーグとブロッコリー、どちらにもかけていただきます。


ごまをふりかけた、あずき入り酵素玄米と一緒にね☆



食事が済むと、まだ日のあたる部屋で、


ヘッドホンをつけて、お布団の中で身体を休める。


からだをというか、あたまを、なんだけどね。


とまりがちな、つまりがちな呼吸に、


ゆっくり、しずかに、意識を合わせていくと、


それこそゆっくりと、からだのすみずみに、


やわらかく、呼吸がいつのまにか、行き渡っていく。




1時間もしないうちに、自然と目が開く。


顔を洗ってメイクを落とすと、


あれだけ力が抜けていた意識と身体は、すでに目が覚めているようだ。


そのまま、食料品を買いに歩いていくことにした。


途中にあるおいしいパン屋さんに足が向く。


この時間帯は混んでいないようだ。


再び気づきが訪れ、それらをノートに現していく。


格別のパンとコーヒーとともに、夕暮れ後のひとときを過ごす。



食料品を買って帰ると、


おばあちゃんの足もみの時間かな、という感じがしたので、


珍しく早い時間に足もみをした。


最近、私が早く寝てしまうから、


この時間にしてあげたほうが、お互いにいいのかもしれない。



お風呂に入って、ひと段落。



さて、書いているうちに、


また、胸騒ぎを感じておりますよ。


明日のお昼のために買ってきた鶏ごぼうバーガーに、


かぶりつきたい衝動が出てきましたよ。


と書いたら、その衝動どこかに消えましたが。



とにかく、今の時期は、たっぷり睡眠を取ろうと思います。


掃除とか、食事を作るとか、瞑想とか、


できることを、ひとつずつ、やってみるしかないです。


道があるのかないのか、わかりません。


だけど、道は作られるものだとしたら、


その人の中からしか、生まれないのだと感じます。


私はいま、とても揺れ動いているようですが、


その中で、小さな声に、耳を澄ましていくしかないと思います。


その小さな声を、ひとつずつ、やってあげていくと、


わたし自身が、静かに、変化していくのかもしれません。


まあ、そういうことで、揺れ動きながら生きていきます☆


おやすみなさ~い☆



☆☆☆





・・・・・進めねええ!!!




日常活動はしてるんですけど、


夜になるとやって来る、この感じ?


落ち着かないですう、理由ははっきりしてませんが、


心を澄ませてみると、一刻も早くここから逃げ出したい気分ですう、


ってな、この感じ?




日常生活はしてるんですけど、


創造性に関わること、私の精神的なエネルギー源に、


いやいやいやいや!!言っちゃってる、この感じ?


いつの間にか寝ちゃって朝になってる、この感じ?


かと思えば、いきなり夜更かししちゃってる、この感じ?




なんにもしたくないのか、


なにかをとにかくしていたいのか、


わっかんなーい♪


ハイテンションだかローテンションだか不明なこの感じ?




だったら壊れろよ、と、


壊れる時間を作ってあげても、


10分もしないうちに、真面目に筋トレし始めてる、


壊れるに、壊れらんないこの感じ?




なんなの!!





良い状態を作ろうとか思わずに、


流れていくしかないんだなと思い始めてきた。


ただし、流されてしまうのではなくて、


流れに身を任せながら、意識を保っているしかないんだな。


意識まで流されたら、元の木阿弥だぜ。




しかし、そう考えると、瞑想って、最高の武器かも。


まあ、私がそれを選べばだけど!!!


はっはっはっはっはっは!!!


また追い詰められたいのか。自分!



☆☆☆




追い込まれないと、その先に行こうとしないんだな。



今週末は、お休みなので、


朝もゆっくり寝てられる時間がある、と思うと、


何度書いてみても、ブログに精神が集中しない自分がいたので、


明日も休みじゃないぞ、ということにしてみたら、


すっと、意識が縦に降りていくのがわかった。


時間的にも、精神的にも、追い詰められて、


やっと行く場所も、あるのかもしんない。




今日一番痛かったのは、


他人は自分の映し鏡って、まじだなあ、ってことを、


しみじみと、鈍痛が鳴り響くくらい味わったこと。



この態度は、エゴの権化なんじゃない?


って、知らず知らず、自分の中で、批判していた人がいたんだ。


そういう態度をとっていたことにも、自分で気がつかなかったけど。


いや、別にそういう態度で接してたわけじゃないけど、


ジャッジしてたんだよね。強烈に。私の中で。




その人が、弱い姿を見せたとき、


その強烈なジャッジが、自分の中で、顕になった


存在を否定しにかかるほどに、


どういうわけかその人に対して、心の中で非難轟々だった。


でも、その時に気づいたことは、


その人は、半年前の自分の姿と、同じ姿だったって事。


リゾバをしていたとき、ありえないくらい仕事ができなくて、


どうにか頑張ろうとしても、やることなすことがあかん状態で、


どうにもできなかった状態があった。




あの人きっと、そういう状態なんだな。そう思った。


そのとき、わたしの心の中のにあった態度は、


「存在価値の完全な非難・否定」


ああ・・・と、深いため息をついた。心の中で。




おそらく、子どもの時の体験なんだろうけど、


愛されなくなる、という恐怖を前に、


愛されない可能性のある自分の姿を、


否定してきたのかもしれないと。




それを、他人の中に見たときに、


それを強烈に判断し、非難し、否定しにかかったのだと。




ため息しか、出なかった。




傷つくならば、それは愛ではない。


そんなタイトルの本を見かけたことがある。


読んだことはないけれど、私の経験と、知っている概念からいうと、


傷つくのは、エゴのみ。


そういう真実があるからなんだろうな、って思う。




傷ついた経験を、否定するわけじゃない。


ただ、いっこいっこ、丁寧に見ていってあげて、


自分の傷付いた経験に、辛抱強く、つきあっていってあげると、


自分の勘違いの概念が、その傷を作っていたことや、


傷つかなくてよかったはずのことに、傷ついていたことや、


まるで、からまった糸がほどけていくように、


傷がほどけていって、謎が解けていくような感じを受けることがある。




おそらく、傷も、自分で作り出したんだと思う。


だけど、それが悪いわけじゃない。


その傷が生まれなければ、


それを作り出す材料となった、


概念、常識、感情、判断に、目を向けようとすることなど、


わたしにはなかったのだと思う。




もし、私の中で、すべての謎が解ける日が来るのなら、


すべての傷も、その役割を終えることになる。


そのとき、物事をはじめて、


ありのままに見られるようになったとしたら、


それって、嬉しいよねって、思った。




とりあえず、わたしが非難轟々していた相手は、


私自身だった、ということが、よくわかってしまいまして、


呆然としながら、デリフランスでパンを食べました。




降りていくと、こういうことが、よくわかってきてしまうのですね。


わたしにとっては、このうえもなく素晴らしい経験なのですが、


勘違いな自分の態度というか、矛先違うじゃん、的な結末に、


強烈に、鈍痛を感じているわたしです。



こうやって、傷と謎はほどけていく。




そして、その先に進む。




☆☆☆