THE CLEARING DAY -30ページ目

THE CLEARING DAY

わが家のお掃除を、本腰を入れて始めたのだ!!

こころもからだもくりあ~でいくよ!!



さっき、久しぶりにノートがはかどった。


イメージと文章、どちらも出てきてくれたおかげで、


私の理解の仕方も、より全体的なものになった気がした。




例えば、さっきの例で言うと、


自分の中で問いかけをしたとき、


ヨーロッパ貴族の肥満児のイメージが急に出てきて、


どうしたんだろ、と思ってたら、


このイメージについて、どう思う?という問いが逆に響いてきたので、


なんでもやってもらうこと自体が仕事みたいになってるから、


自分で動く機会がないので欲求不満を感じている。


この欲求不満が、生きる意欲や気力をも抑えてしまっている、


みたいなことを書いているうちに、


このイメージ、自分の小さい頃の姿かもって思った。




身体も、気持ちも、周りを伺っていることが多かったから、


自発的に動いて楽しいというよりは、


怒られないように、最小限のことをする、という方が、合ってたかもしれない。


あとは、着せ替え人形みたいな感じですよね。


けど、たとえば、お手伝いとか、


これお願いって、大人から許可を受けたものだけは、やってたんだ。




今思ったけど、わたしはその場で臨機応変に動けるタイプというよりは、


マニュアル通りに業務を行う方があっているタイプ。コールセンターとかね。



もっと、自由に動ける人に憧れていたんだけど、


言われたとおりにしか、動いてはいけない、というのが、


子供の頃の記憶として、残っていたのかもしれない。


それで無意識に、自由に考えるという思考に、ストップがかかってしまうのか。




父親も、その極端なタイプだったから、


「言われた通りにしかやってはいけない」ということを、


怒られる恐怖とともに、随分味わったのかもしれないと思いました。




あ~あ~、謎が~と~けえてゆ~く~。(昔懐かしい歌に合わせて)




自分の謎解きをするのは面白い。


でも、同時に吐き気(笑)




最近、ず~っとノートが進まなくて、


書いてはいるんだけど、頭の中が整理されるどころか、


むしろごちゃごちゃがとまらず、自分の中に全然入っていけなかった。


肩もカチカチだし(笑) 実はわたし、7、8歳の頃から肩こりだったので、


その頃の身体と感情の記憶が、よみがえってきてるのかもな、


と思いながらも、どきどきしてました(笑)


こんな小さい頃の記憶に向き合えるのか?って感じで怖かったし、


その頃味わった鮮やかな感情なんて、出てきてくれなくていいって思った。




だけど、鮮やかだったからこそ、


取り戻す必要があるんだよね、今の自分に。


自分を非難するや、貶めることではなくて、


自分を愛することに、意識を向け始めた今だから。


少しずつ、取り戻していったら、いいよね。




☆☆☆




レ・ミゼラブルのフォンティーヌの記事を見て寝たせいか、


自分が娼婦になっている夢を見た(笑)




といっても、若さで稼ぐ年齢ではもはやなく、


そこに来た客とトランプでもして、お世辞でも言って、


うまく喜ばせて稼ぎになればラッキー、といったところだった。


いてもいなくても、誰も気にとめない存在だった。


その女の命を生きながらえさせることに関心があるのは、


その女、一人だけだった。あれだけ大勢の人間が周りにいながら。


別に、義務も義理もないので、その日はすぐに帰ることにした。


出口へ向かいながら、女は限界を感じていた。


アルコールとタバコで、体がぼろぼろだったのだ。


さらには、頭の中がスポンジになったみたいに、


脳がスカスカに感じられて、


体を動かすと視界がぼやけ、また、意識が朦朧とするのだった。



「このつらさは、重苦しさは、死ぬまで続く」



彼女の中で、明確に存在していたものは、


この思い、このボロボロの身体と脳みそ、それだけだった。




そんな感覚の真っ只中で目が覚めたものだから、


一時間くらい、しばらく体を動かせなかった。



茶の間に行って、おばあちゃんの声を聞いてやっと、


わたしはここにいるんだな、と感じられてきた。


いま、自分にしてあげられることはなんだろう、とおもって、


ミネストローネスープとインドカレーを作った。


ミネストローネ。野菜をさいの目に細かく切って入れたスープ。


台所にある野菜くずで、ほそぼそと作っているイメージが湧き出してきて、


かろうじて、台所にあった野菜を入れ込んで、


そんな中でも、一生懸命に生きようとしてきた人達が、


今までも、そして今も、これからも、いるんだろうなと、


小さなろうそくの炎を慈しむかのような、


いのちを見守る母親のような気持ちになった。






そういえば、話は変わるが、


こないだ、お化粧のことを書いていた時に、


シミは毎日のお手入れで確実に薄くなる、という文章を見て、


そんなわけあるかいな、と思った自分がいた。


信じられなかったのだ。肌がそんな簡単に変わっていくなんて。


けれど、冷静に考えれば、血液も酸素も毎瞬全身をめぐっているわけだし、


肌だって細胞だって、28日周期で生まれ変わっているって言うし、


全身の細胞も、もっと長いスパンで、すべて完全に入れ替わっているらしい。


生体機能としては。




と、すれば、


この、「そんなわけあるかいな」の根拠は、ないわけだ。


身体は、私が思っているより、ずっと変化しやすい物質らしい。




そのときに、気づいた。


そんなの変わるわけない、という言葉は、私の身体へ向けられたものではなくて、


わたし自身の身体に対する見方、考え方について、放たれたものなのだと。




「わたし」は、そんなに簡単に変わるとは思ってないわけだから、


そんなわけ、あるかいな、(変わるわけないでしょう)


という信念を、自分が今採用している考え方を、表明したのだ。


そして実際、自分の身体は、


そんな自分の信念を反映していただけなのだ。



それに気づいたとき、ドキっとした。


身体じゃなくて、考え方の方だったのだ・・・。


身体の方が、重みとかもあるから、変化しにくいイメージがあったのだけれど、


変わりがたい→変われない という判断を下し、そのように生きていたのは、


実は、私の頭の中だったのだ、ということだった。




何が言いたいかというと、


起きてからも、しばらく、


「この辛さは、重苦しさは、死ぬまで続く」


という、あの感覚がついて回っていて、


その感覚に、取り込まれそうになるたびに、




今は、そのように生きなくてもいい環境に生まれてきたじゃない


ほら、こうして、暖かい食べ物があるじゃない


自分を愛そうと思えば、愛せることに気づいたじゃない


もうここは、吹きさらしの荒野じゃないから




と、自分を今に立ち返らせる必要があったのだ。




実際は、荒野は外の風景ではなく、


心の中で感じている光景を指す。


だから、いくら暖かいスープやカレーを食べても、


心に荒野が現れ始めると、


世界は自分と切り離された場所に感じられてしまう。


つながりを、全く感じられないのだ。


だから、飢える。





でも、実際は、違うのかもしれない。


あの女は、自分の存在の無価値観に、抗うように、生きていた。


無価値観。愛されない存在。


それが、彼女の、自分に対する認識、信念だったから。


あの女は、違う生き方ができたのだろうか?


その可能性は、あったのだろうか?


違うことを望んだら、違う結末を迎えたのだろうか?


自分に対するあまりに辛い信念を、解きほぐすことを求めたら、


あの女の人生は、変わっていたのだろうか?




そんなことを、思った、という話だ。


わたしは、基本的に、


ハッピーエンドが、大好きな生き物だから。



☆☆☆




川は、その流れに予定など立てない


高いところから、低い所へ


浅いところから、深いところへ


流れが妨げられようが


溜まり続けて泥水になろうが


ただ、流れ続けていくだけ






頭が、使えない


何も、考えられない


静けさを感じるのには、絶好の日だ。




☆☆☆



お化粧とか、ヘアケアとか、ネイルケアとか、ボディケアとか、


女の子が好きなこと、みたいな扱いをされているから、


だから、わたしもそれらを好きになって、


女の子の仲間入りをしようかな、と思ったりしたけど、


どうにもこうにも、長続きはしなかった。




最近、分かり始めたことがある。




女の子に、なる必要は、ないんだ。




誰が決めたんだろう。これが「女の子」だなんて。


それに合わせようとしたから、続かなかったんだ。


誰が決めたんだろう。これが「女性の身だしなみ」なんて。


それに忠実に当てはまろうとするから、疲れたんだ。




わたしは、わたしなんだ。




女の子になるんじゃなくて、


わたしになるだけで、よかったんだ。




こんな女性になりたいじゃなくて、


こんな、モードな雰囲気を醸し出したいじゃなくて、


私自身であることに、誠実であること。


その姿勢が、自分自身を、


女性にしていくんだ。




そんな中で、感じ始めていたことは、


お化粧とか、スキンケアとか、ボディケアとかっていうのは、


身だしなみとか、女性としての価値を上げるため、というよりは、


わたし自身への、愛の表現なんだなっていうこと。




この冬、一番ショックだったのは、


小じわが凄まじく発生していたこと!!!(笑)


いくらお手入れになおざりな私でも、さすがにビビった!!!




そのときに、思った。


わたし、自分の顔に、関心を持ってなかったんだ。


意識を向けてこなかったんだ。


今どういう状態かとか、見てあげてこなかったんだ。


乾いているのか、潤っているのか、気づくことすら、


感じることすら、してこなかったんだと。




そのとき、思った。


どうして、そこまで無視する必要があったのだろう?


ちゃんと、見ていてあげればよかったじゃない。


自分の身体なんだから、疲れたなら疲れたなりに、


栄養が必要ならそれなりに、乾いているならそれなりに、


手をかけてあげれば、よかったじゃない。




世の中の価値観に、抵抗している自分がいたのでしょう。


だけど、同化する必要なんて、ないと思う。


私の価値観は、すでに存在しているのだから。


行動は同じことをしていても、


その行動が生まれてくる源が、


内側から生まれ出たものであったのなら、


それは、私自身の価値観から生まれ出た行為になるのだから。




今の私の、スキンケアやボディケアの源にある感覚は、


「そこにあるものを、愛する」


それだけなんだろうな、と感じる。


源は、シンプルな方がいい。




今日は、いっぱい泣いたし、乱れもした。


寝る前くらいは、自分をちゃんと、見てあげます。



☆☆☆






化粧とか、ボディケアの概念が、変わり始めた。





もともと、化粧って、好きじゃなかった。


20歳のお祝いに、「デパートでお化粧品買っていらっしゃい」と、


母の友人からお祝いをいただいて、カウンターへ行った。


確かに、きれいに、お化粧はしてくれるんだけど、


私に残っていたのは、「違和感」




小さいころから、そう。




いまだに残っている七五三の写真では、


小さい時にしては珍しく、


強烈に、尖った目つきで、カメラを睨みつけているわたしがいる。


なにで機嫌を損ねたのか、詳しくは覚えていない。


ただ、肌に何かを塗られるのとか、


口紅なんかつけられるのが、嫌だったような気がする。


「口紅は、変な味がする」という記憶も、残っている。




大学に入って、礼儀作法の先生から、化粧をしなさいと勧められても、


いちおう、塗っては行くんだけど、


塗ってないんじゃないかというくらい薄くて、わからない程度だった。




高校の時、合唱コンクールの衣装に合わせて、


青系のネイルカラーをみんなでつける、ということになって、


別にその時は、なんとも感じてなかったんだけど、


朝おきて、ベッドの上で自分の爪を見たとき、


「あ、青い?!」


すんごく、ぎょっとした(笑)


爪が青いなんて、宇宙人にでもなっちゃったんじゃないか?!


くらいの、違和感があった(笑)




おそらく、私の印象としては、


化粧とか、ネイルとかって、

自分が、隠されていくような気がして、

奇妙な感じや、違和感の方が、先に来てしまい、


どっちかっていうと、気持ち的に、疲れる類のものだった。




化粧やネイル、服などで、自分を着飾ったら、


その瞬間から、「自分じゃない自分」を演じなければいけないような気がして。


すごく、それが、嫌だった。




それでも、ちょくちょく、


ネイルや化粧や服装に、興味を示すことはあったし、


こんな自分になりたいな☆、っていうイメージに合わせて、


ごくわずかな予算で(笑)、色を試すこともあった。




だけど、どれも、長くは続かなかった。




だから、わたしは自分のことを、


「メイクや服装や、外見的なことにエネルギーを使わない人間」


として、認識していた。


髪とか、女の子が良くするような、おしゃれに関しては。




だけど、その認識が、自分の中で変わってきた。


軸が、少しずつ、移行し始めている感じだ。


今日は時間が遅いので、また後日書きます☆




☆☆☆