今日は、早く寝ようと計画中。
しばらく夜型になっていたので、朝方に切り替えます。
朝方が定着すると、いい感じなんですよね、私の場合。
そのリズムと同調できる自分がいないと、
やっぱこういうのって、続かないよね。
続かないといえば、ブログ(笑)
一日飛ぶ時っていうのは、だいたいノートの方も飛んでるので、
書くこと自体に抵抗してるんだなあと感じる。
いま、パウロ・コエーリョの新作、
「ヴァルキリーズ」を借りて読んでるんだけれど、
その中に、またまた面白いコトバを見つけた。
「そして誰もが自分の愛するものを殺す」
人によって、この言葉から受け取るものは違うと思うけど、
わたしは、思い当たるフシがあった。
大学の頃、ノートに、
「人は、自分が最も欲しているものを、最も遠くへ押しやる」
って、書いたことがある。
たとえば、その時の私で言えば、
わたしは、苦しくてどうにもならない時に、
誰かそばにいて欲しい!という、強い感情を抱くことがあった。
だけど、実際に私がとる行動はといえば、
部屋には鍵をかけ、ストーブもほとんど付けず、
「孤独」という言葉が似合うような状況を、自ら作り上げ、
外にも内にも硬い殻を作って自分を守りながら、
そのど真ん中で、苦しんでいた。
そのど真ん中で、
「誰かそばにいて!!!」って、
ノートに殴り書いていた。
その状態を、冷静に見たらわかるんだけど、
実はなんと、自分が望んでいることと、全く逆のことをやっているのだ。
そういう状態を、2、3回位経験したとき、
涙でびしょ濡れになりながら、この言葉を書いた。
「人は、自分が最も欲するものを、最も遠くへ押しやる」
わたし、自分から人を寄せつけないようにしておきながら、
なんでこんなに、誰かがそばにいてくれることを望んでいるんだろうって、
あるとき、気づきながらも、おかしなことしてると思いながらも、
そのときは、その孤独と苦しさの、鋭い痛みに耐えることしかできなかった。
どうして、自分の本意でない思いや行動が、
いつの間にか、自分の人生のパターンとして定着しているんだろう。
経験から湧き出た、私の疑問だった。
頭ではわかっていても、それが起こったとき、
パターンから抜け出すのは、正体のわからない敵を相手にするようなものだった。
何を、どうしたらいいのか、わからないのだ。
だから、いつの間にか結局、今までのパターンを繰り返してしまう。
それがたとえ、自分の本意ではなかったとしても。
そしてそれが繰り返されることで、
「自分の人生は、このようなものなんだ」
という雛形が、形成されてしまうのだ。
パウロはこのことに、どう取り組んだのかな~と思って読んでたら、
いきなり、著者が魔術師であるらしいことが判明してきて、
いきなり違う世界に招待された気がしたけど、
何にしても、要点が出てくるまで、逃さないよ!(狼かお前)
あのとき、わたしに、人にオープンになるという選択肢はなかった。
あまりに傷口が開いているときは、人に近づかないほうがいい。
それが、無意識に、私の中の雛形として存在したのだろう。
だけど、実は望んでいることは、人の優しさに触れて癒されることだったとしたら、
私のこの望みは、私がこの雛形を選んでいる限り、
一生、叶うことはないわけだ。
そして、叶うことがない日々の中で、新たな信念が生まれる。
「人に優しさを求めるなんて、甘えなんだよ」
もともとの望みは、こんなふうにして、自分から隠されていく。
何が正しいとか、この際ジャッジなんていいからさ、
もともとは、なんだったの、
何を、感じてたの、何を、思っていたの、
その原点に、感情も含めて、還ることから、
やっと、始まるんじゃないかって、感じる。
どうしても、習慣としてジャッジが入るから、
そしてそこには、否定された痛みの感情も伴ったりするから、
うまくうまく、自分から隠されているんだけど、
それに気づけるのも、自分だけだから。
ここは、他人に譲るところではないから。
だから、自分で、見ていくしかないと思う。
まあ、そういう意味では、
求めていた優しさを、一番最初に感じさせてくれる人は、
自分だったりするのかもしれないね。
槍と盾とを振り回したままでは、
自分の内側を感じることなんて、できないからさ。
☆☆☆