昨日から、こっそりワークショップ中だ。
毎度のことだが、組んだ女性から
「気持ち悪い」と言われ続けた。
小中学生女子からも、あからさまに
嫌な顔をされた。
生理的に、気持ち悪そうだった。
もう、なにかワークをやる以前の問題だ。
そして、これが取り組める課題だと思った。
それに、女性から生理的に気持ち悪がられては
世界の半分から気持ち悪がられるわけだから
こりゃ、なんとかしないと分が悪い。
嫁なんぞ夢のまた夢だ。
取り組みながら、ドツボにはまった。
できないパターンだ。
できないように自分であきらめるパターンだ。
相手のせいにして
凹み、気にして、しょげる。
相手が気遣い出し、そうしない人は離れていく。
結局どうなるか。
その自分はほっておかれるわけだ。
そして具合の悪い現実は見ないわけだ。
今日もいつもどおりの、このパターンをたどった。
相手から直言されて、平気なふりしてるが
気にしてるのがバレバレ。
力が入って、もう自分にしか注意が向かない。
この自分をどうしよう、ということだ。
色々言い訳していた。
こうなっているのがわかっていたが、他の引き出しがなかった、とか
相手を変えようとしたり。
一緒に相手はやろうとしてくれていたにもかかわらず。
これが、自分の姿だ。
組んだ女性のアドバイスがきっかけで
少し変化した。昨日もそうだった。
大きな発見があった。
もっと相手に入る。近くに感じていく。
どんどん行く。
これをちょっとやけくそでやったら、
こっちのほうが、まだましだった。
自分では、これは違和感で相手から嫌だって言われてしまう。
これこそ、気持ち悪いだろう、と思って、「そうしないように」していた。
だから、結局「どうかな?これでどうかな?」になって
相手からは気持ち悪いことになっている。
だめって言われたくないのだ。
だめって言ってるのだれなんだ?
今日は一緒にワークをやろうとしてくれていた。
あきらめたのは、自分である。
それなのに、だ。
だめな自分を作り出す考え方が、ここにある。
ここが、今回親父とのやり取りで、わかってもらいたい自分と
態度の裏、言葉の裏をよんで、決めつける癖とつながっているなあ。
結局、良い自分をやろうとしているのだ。
そのとき、こうしようだけであり、それがはじまりだ。
良い自分やそれからうまれるできない自分、だめな自分は
相手からはなんのこっちゃわからない、関係のない違和感だ。
自分がこうしようは、自分の責任。
当たり前に、相手にもその世界があり
それは相手の責任であり、尊重されなければならないし
人がどうこうできるものではない。
やりたいことの真逆をやっていたのである。
一体何だのだ、この自分は。
おばちゃん相手には、この反応が起きない。
ということは、自分にどこか、かっこつけたいとか
こうみられたい、みられたくないみたいのがあるのだと思う。
方向性だけは見えたのだから
これは、今回絶対つかみたい。
人の中で仕事ができず、
人と揉めてしまって辞めてしまう。
忍耐力のなさを、別の角度からみたものだ。
ここでも、
「自分の気持は横において」なのだ。